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桑田滄海

 時には日常のことも書く。そういう心になるときも、かろうじて出てきた。まだまだ油断は禁物だが。
 今夜は浅草納めの観音、羽子板市に行ってきた。大震災の去年は行ったか否か、もう覚えがない。
 DSC_0484.jpg午後から出て、ちょうど日が暮れて夕刻あたりの到着を狙う。それはよかったのだが、仲見世の人出の少なさに、まず驚く。ちらほらと言ってもいいくらいだ。かつての羽子板市の頃は、こんなものではなかった。
 さらに驚いたのは、小屋掛けの羽子板の店の数がうんと少なくなっていたことだ。昔は山門の外側まで溢れていたのに、いまや境内ですら淋しい印象。しかも知っている名前の店がなくなっている。別の店で尋ねたら、やはり出店が年々減っているとのこと。
 淋しいのは羽子板店だけではない。屋台も少なくなっている。歳末の六時前で退け時だというのに、この閑散振りは何だろう。
 ともかくもお参りも済ませ、羽子板も求め、それから仲見世を伝法院通りに折れる。普段は外で順番を待つほどの天丼の店「大黒家」もガラガラで、拍子抜けするくらいあっさりと入れる。四人掛けのテーブルに一人ずつ座って食べているのが、みな比較的若い女性というのも不思議。あまつさえ、その中の一人は「私、海老が駄目なので抜いてください」とのたまう。天丼屋で海老抜きとはいったい何を知り、何のために入ったのだ。鼎の軽重を問う末世、末法とはこのことだ。
 食べ終えて、途中にある鰻屋「小柳」の前を通ると、ここも来年三階建てビルに建て替えという告知看板が掛かっている。新仲見世から国際通りに出ると、昔、亡き母に大晦日の度に草履を買った「富士屋」も、何と「こけし」を売る店に変貌しているのにも愕然とする。余りと言えば余りの栄枯盛衰だ。大震災は、世の中をここまで変えてしまった。
 桑田滄海の悲哀に打たれつつ、最後は虎ノ門の日本酒バー「いな吉」で軽く締めて帰る(何でこんな店を知っているか? それは秘密)。

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覆轍

 覆轍だ。かつて撃ち落とされた司令長官は「一年二年は」と言ったが、今度はそれすら到底叶わないだろう。

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launch覚え書き

ばらしたり、組みなおしたりなどと見せかけていたのはダミーだろう。常套手段だ。
この時期のlaunchというのは、愛国主義を呼号する某党およびその指導者に対してはむしろ追い風、さらなる助け舟ではないのか。国際的背景を注視していかねばならないだろう。

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マイナス100点

 感情が鈍磨している。いや感じないように無意識がそうさせている。そうでもしないと、日々を過ごしていけない。
 腹は減るのだが、食欲がわくというのではない。食べても味はわかるが、旨いとは感じない。つまり感受性の鈍磨だ。
 畢竟、喜びがないということだ。
 いっときの喜びの後には、どうせ悲しみが来る。なまじ喜んだ分、悲しみの量は倍になる。単純な数直線上の計算だ。そう思うから、喜びなぞ感じない。ない方がいい。しかして来たる悲しみは常に喜びより大きいから、喜びは打ち消されてしまう。
 これをシミュレートしてみよう。
「なにかまあ、少しはよくやった(かもしれない)。プラス1点。ああ失敗した、うまく行かなかった。マイナス100点。リカバーせねばならぬポイント、差し引きマイナス99点。なにかまあ、よくやった。プラス1点。残りマイナス98点。失敗した、うまく行かなかった。マイナス100点。リカバーしなければならないポイント、差し引きマイナス198点。」
 私の人生は、このようなものだ。私は人生を、このようなものと感じている、考えている。
 こうして、私にはもう、喜びがない。だったら喜びなぞ、なくていい。感情なぞなくていい。ロボットになりたい。

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水泡

 築き上げたものが水泡に帰す。そんな経験を、いま多くの人がしているに違いない。通勤の行き帰り、心身を病んでいると思しき人影を目にすることも多い。
 それが天災のみによるものであるならば、まだしも復興の契機を掴むことは可能かもしれない。いや今頃は、各地でその槌音が聞かれ始めているはずだ。
 だがそれが、あの人間が解放したエネルギー、しかも完璧にコントロールできているものと信じ、かつ信じ込まされて疑わなかったあのエネルギーの恐るべき負の部分によるものであったとき、それは物理的にも、また心理的にも回復不能な痛手を、人間に与えてしまった。私も含めて。
 心は冷え、何をするのも上の空だ。現実の手応えというものが失われてしまった。あのエネルギーの恐怖と不安の前には、すべてが儚い栄耀栄華だった。
 このうえ無常観を持たない人は、「一期は夢ぞ、ただ狂え」のつもりか。いや、そんな裏返した酔狂のセンスを持ち合わせている現代人なぞ、いはしない。ただの砂に首を突っ込んだダチョウであるだけだ。見ないようにしているだけだ。考えないようにしているだけだ。
 実はもはやすでに、みなわなのだ。

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怒りの毒

 根深い怒りがくすぶっていて、心から去らない。私をこのような運命に叩き込んだ、なにものかに対する怒りだ。
 横浜線に乗っていると、目の前に相模原の雄大な景色が広がる。そこに隈なく建ち並ぶ家々が、すっかり灰色に見える。この人たちも、希望や喜びなど無いに違いない。「あるんだよ」という声も聞こえる。どうだかわからない。あるとは思えないのが、今の私の心だ。失意のみ。
 毒が体中に回っていくのがわかる。
 神に対して最大限の警戒をしながら、薄氷の上を歩くつもりで、毎日を過ごす。生きる。

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ペギー・リー

 人も寝静まったリビングで、灯りを落とし、お湯に割ったシングルモルトを少しずつやりながら、ベニー・グッドマン楽団の伴奏する1941年録音のペギー・リーを、ボーズで聴く。
 たとえほんの僅かでも、このひとときがあることを。

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蓮の花

 長い間ずっと、蓮の花の上で、目を半眼に開き、薄笑いを浮かべて何もせずに、じっと坐っていたいと思ってきた。
 波乱万丈は、真っ平御免だ。子どもの頃最初にジェットコースターに乗せられたとき、どうすればこの恐怖から逃れられるかと考え、「そうだ、椅子の下に潜ってしまえばこの流動する外部の景色を見ないで済むのだ」と思いついて、そうしたことがある。じつに平安だった。補助バーなどついていない頃の、昭和30年代の遊園地での話だから、嘘ではない。
 喜びと悲しみとがもしも不即不離のペアならば(しかし楽しかった分悲しみは倍になるし、悲しいことで喜びは打ち消されてしまう。つまり、どだいこの両者は釣り合うペアではないというのが、私の固定観念だ)、私は悲しみなど一切感じたくないから、そうすると打つ手は一つ、要するに喜びも感じなければいい。つまり感情なぞ持たねばいい。したがって蓮の花の上と、こうなるのは当然の順序だ。
 そう鍼の先生に言っていたら、先生曰く、蓮の花ほど不安定なものはない、水の上に浮かんだり、細い茎の先に乗っていたりしているではないか、そんなぐらぐらしているところで泰然自若としていられるのはお釈迦様だからだ、我々はお釈迦様ではないよ、と。
 そんな考え方をしたことはこれまで全くなかったので、これには意表を突かれた。つまりお釈迦様というのは、ジェットコースターどころではない波乱万丈に巻き込まれ揺られつつ、なおかつその中でどっしりと構えているわけだ。もしこの命題を殊勝に敷衍すれば、蓮の花は世間、そして世間が極楽となっているということだ。そして相対的に観点を移せば、どんなに蓮の花に坐っても、動いているのは所詮自分の心、とこういうわけだ。
 何のことはない、禅ではないか。ジョン・レノンが言うように「降ったり晴れたりしているのは自分の心」ではないか。
 忌々しい話だ。


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争い

 MとJの争いだが、私はMが勝つと見ている。なぜならNが「一見誠実で恬淡たる様子」を見せたからだ。日本人は判官贔屓だから、こうしたスタイルに弱い。但し内部崩壊しているところから見ると、遅きに失したかもしれない。結局は、人望がなかったということになるかもしれない。
 しかし日本が、ドイツ型ではなくイタリア型になるとは意外だった。

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オメガ因子

 その昔のアトムに、「アトラスの巻」という作品があった。後のリメイクアニメでは、アトラスは「裏アトム」という設定になっていたが、オリジナルではそんなことはない、別のロボットだった。
 ただしアトラスの意味合いとして昔から変わらずユニークだったのは、「オメガ因子」という回路を組み込まれていたことで、つまりその回路は、悪いことができるというプログラムなのだ。それとは反対に、アトムをはじめとする他のロボットたちは、すべていいことしかできないように設計されている。だからスカンク草井というニヒルな悪役が、アトムに向かって「悪いことができなきゃ、完全じゃないぜ」と喝破するのである。子ども心にも、よく覚えている。
 アトムとアトラス、善と悪、昼と夜、光と陰。二つ揃って、初めて世の中は成り立つ。生死もそうだろう。
 そんなことはよくわかる。自分が不遇だと思っていたとき、「日向ばかりだと日射病だ、日陰の涼しさが人を救うときもある」と考えが浮かび、慰められたこともある。
 ひるがえって、自分はどうかと思うと、悪の要素はほとんどない。悪いことを考えたり、悪意を持つ回路というものが、自分の心のなかには、どだいないのだ。善意を持ち、人を善意で見て、その人にも善意しかないとしか考えられない。人が自分に悪意を向けてきたりするとは、毫も考えないのだ。どんなに手ひどい目に遭ってもだ。そもそも回路がないのだから。それで何もわからないまま、傷つき、裏切られたと思う。人がその人同様、私がその人に悪意を持ち、その人を騙しにかかってくる、裏切ってくるという目で私を見ているのだとは、私は毛筋ほどにも思っていないのだ。後でそのことに、はじめて気が付くのみだ。そして、その体験を経験に変えるということも、またしない、いやできない。そんな学習回路も、また持ち合わせていないから。昔からロボットになりたいと思ってきたことには、そうした側面もあったのかもしれない。私は、アトムになろうとしたのだ。アトラスになることは、選ばなかったのだ。
 だが神は完全だ。なぜなら、善も悪も持っているから。そして、私は不完全だ。アトムと同様、善しか持っていないから。
 しかしそれゆえに、私が不完全なゆえに、いや私を不完全に作ったゆえに、神は私を憎み、妬み、嫉み、迫害を加えてくる。天馬博士がアトムをいじめたように。神は天馬博士だ。
 
 なぜなら、私はアトムだから。
 善人だから。
 「善」という「不完全」だから。
 オメガ因子を持っていないから。

*だがそうすると結局、私はパスカルの言うごとく、「天使の行いのつもりで外道をやっている」ことになるのか? それで人は私を煙たがるのか? 私は酷吏なのか? 孔子の輩が嫌われるのは、そのためか? 「預言者は、郷里では敬われない」のは、そのためか?

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