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リドリー・スコット監督映画『オデッセイ』感想


●リドリー・スコット監督「オデッセイ」観る。
(ややネタ曝れあり)


 総じて言えば、一人取り残されるのが得意なマット・デイモンと、イヤミなNASA長官とで保(も)った作品。だが面白くなかったとはちっとも言っていない。十分に手に汗を握った。
 出だしのあたりは、リドリー・スコットお得意の「監督大好き内臓趣味」満載。腹に喰いこんだ破片を自分で取り出して、手術用ステープラーでカチャン・カチャンと閉じる。...
 後も例によって、さまざまな名作・佳作の本歌取りやリスペクト。『2001』は言わずもがな、『2010』もそう。中国が救いの手を差し伸べたり(尤も俳優さんたちはちっとも生え抜き中国人らしくない、そのあたりはかつての日本人描写と同じ)。タイムズ・スクエア、ピカデリー・スクエア、そして北京くらいしか出ない。『ブレードランナー』の頃に比べて、日本や東京の地位も落ちたものだ。それ以外にも、座席型宇宙移動モジュールは、映画第一作『スター・トレック』でのスポックのそれを思わせるし、探査車ローバーのデザインは、テレビシリーズ『スペース1999』のイーグルと似ているし、ジャガイモ栽培のシーンはダグラス・トランブルの感傷的SF『サイレント・ランニング』をすぐに連想した。また、こうしたハッピー・エンドは、リドリー・スコット作品としては珍しいと思うが、たぶん次作の前の「ちょっとした息抜き」として作ったのかもしれない。巨匠なら、それくらいは許されるだろう。
 蛇足ながら、いったいだれが「オデッセイ」なる邦題を付けたのか。原題はただの《ザ・マーシャン》(火星人)なのに。マア、オデッセイ的冒険と移動ではあるし、オデッセイもある意味では放浪海賊であって、劇中にも「公海上の船に許可なく乗り込むのは海賊行為だから、自分は〈宇宙海賊〉だ」という、大略そんな意味の科白もあるので、そうした題をつけたのかもしれない(これに関しては、プログラム中の添野知生のアーティクル「ユーモアは最高のサバイバル・スキルなのだ」の記述にある"2001: A Space Odyssey"と、故デビッド・ボウイの歌〈スペース・オディティ〉への博識な言及が参考になる)。でも、この『火星の人』なるオリジナル小説の題名には、明らかにレイ・ブラッドベリ『火星年代記』へのオマージュがあると思うのだ。なぜならば、『火星年代記』のエピローグは、核戦争による地球滅亡後、ただ一基のロケットで火星に脱出してきた家族の子どもが父親に「火星人はもういないの」と聞くと、父が「そこにいるよ」と答え、子どもが運河を覗き込むと、そこには自分が映っているという、何とも詩的かつ黙示的結びだからだ。つまり「火星人」=「地球人」(=「ヒューマン」)という意味合いだから。それが、最後に宇宙飛行候補生アカデミーの講師となった主人公の講義に生かされているわけだ。
 そうそう、そういうところからは、『宇宙家族ロビンソン』も考慮に入れておかねばならないだろう。プログラム中のマット・デイモンのインタビューで、かれは「監督はロビンソン・クルーソー映画を撮りたかった」と、大略語っているから。
 いずれ「巨匠の片手間B級名作映画」という位置づけだろう。


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Twitter退会

Twitterの記事を削除し、アカウントも削除して退会。といっても、誰もフォローしなかったし、誰からもフォローされなかったので、じつにひっそりと。みんな、飲み屋の与太話の延長で考えてしまっているが、ことあらば揚げ足を取ろうと虎視眈々のWEB世間は、そうは捉えてはくれない。

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桑田滄海

 時には日常のことも書く。そういう心になるときも、かろうじて出てきた。まだまだ油断は禁物だが。
 今夜は浅草納めの観音、羽子板市に行ってきた。大震災の去年は行ったか否か、もう覚えがない。
 DSC_0484.jpg午後から出て、ちょうど日が暮れて夕刻あたりの到着を狙う。それはよかったのだが、仲見世の人出の少なさに、まず驚く。ちらほらと言ってもいいくらいだ。かつての羽子板市の頃は、こんなものではなかった。
 さらに驚いたのは、小屋掛けの羽子板の店の数がうんと少なくなっていたことだ。昔は山門の外側まで溢れていたのに、いまや境内ですら淋しい印象。しかも知っている名前の店がなくなっている。別の店で尋ねたら、やはり出店が年々減っているとのこと。
 淋しいのは羽子板店だけではない。屋台も少なくなっている。歳末の六時前で退け時だというのに、この閑散振りは何だろう。
 ともかくもお参りも済ませ、羽子板も求め、それから仲見世を伝法院通りに折れる。普段は外で順番を待つほどの天丼の店「大黒家」もガラガラで、拍子抜けするくらいあっさりと入れる。四人掛けのテーブルに一人ずつ座って食べているのが、みな比較的若い女性というのも不思議。あまつさえ、その中の一人は「私、海老が駄目なので抜いてください」とのたまう。天丼屋で海老抜きとはいったい何を知り、何のために入ったのだ。鼎の軽重を問う末世、末法とはこのことだ。
 食べ終えて、途中にある鰻屋「小柳」の前を通ると、ここも来年三階建てビルに建て替えという告知看板が掛かっている。新仲見世から国際通りに出ると、昔、亡き母に大晦日の度に草履を買った「富士屋」も、何と「こけし」を売る店に変貌しているのにも愕然とする。余りと言えば余りの栄枯盛衰だ。大震災は、世の中をここまで変えてしまった。
 桑田滄海の悲哀に打たれつつ、最後は虎ノ門の日本酒バー「いな吉」で軽く締めて帰る(何でこんな店を知っているか? それは秘密)。

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ペギー・リー

 人も寝静まったリビングで、灯りを落とし、お湯に割ったシングルモルトを少しずつやりながら、ベニー・グッドマン楽団の伴奏する1941年録音のペギー・リーを、ボーズで聴く。
 たとえほんの僅かでも、このひとときがあることを。

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賀詞交換会

○賀詞交換会
 本務校の新年賀詞交換会に出席。昼から懇親会。いわば学校の「仕事始め」だから、少しは酒も出る。いい日本酒がありそうだと遠目に期待していたら、一升瓶は一升瓶だったが、焼酎の方だった。それで日本酒は、小さな一合瓶ばかり。この頃は日本酒党は少ないのだし、どうせ余るのだから、その分の予算で、いい酒を用意しておいてくれればいいのに、などと卑しいことを考えた。
 他学部や部署の教職員とも久し振りに顔を合わせて挨拶を交わし、帰りは梅が丘駅前の洋菓子屋「アルパジョン」でケーキを買って帰宅。

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ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート2011

○ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート2011

 やはりこれがないと、一年が始まった気がしない。今年の演出は、いつにも増して優雅だったような気がする。
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 年が明けてほどなく、地元の神社に御札を戴きに参る。都心の有名どころの神社には較ぶべくもないが、それでも深夜に何十人もが行列を作っている。尤も、若い者は深夜にこうして大っぴらに集まれるのがそもそも楽しみなのだろう。そうして、おみくじばかりを気にする。本末転倒ではあるだろう。

 夜が明けてからは、まず朝日を浴びて、富士山を望む。新年の天気がよいのは、東京周辺のみだ。それから、家族で氏神に初詣参拝。道を挟んだ、かつてのそこの別当寺にもお参りしてから戻る。
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 夜は、ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートを楽しみ、またいつもどおり、富山の銘酒「満寿泉」を開ける。今年の出来も格別。去年も書いたと思うが、日本酒というよりも「米で造ったネクトル」とでも言った感じ。
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大晦日の浅草

○大晦日の浅草

 もう大混雑。賽銭も飛び、外国語もそこここから聞こえる。めぼしい食べ物屋も大行列。
 それでいて、六区の方へそれると、昔ながらのあぶれた労務者でもいそうな雰囲気で閑散。
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伝法院通りから見たスカイツリー。この通りの大和屋で、いつも佃煮を買います。




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年末の骨休め

○年末の骨休め
 年末の骨休めで、29日の晩、一泊で、家族でキャピトル東急に泊まる。改築新規開業以来、まだ二箇月しか経っていない。若い頃は母を連れてよく「オリガミ」に行っていたものだが、じつは泊まるのは初めて。
 高層のフロアの部屋に入って、皇居や首相官邸が眼下に見下ろせるのにびっくり。スカイツリーも真正面だ。ベイブリッジやお台場、さらに遠くには日光か筑波まで望めて、こんな眺めはちょっと味わえないだろう。
 ホテルそのものの印象はといえば、可もなく不可もなし。今様流行の「和モダン」というやつだろう。セキュリティも、設備も現代最先端で万全だが、あくまでコストパフォーマンス最優先だという印象。要するに、ホテルというものが、都市を代表するモニュメンタルな存在でも、またランドマークでもなくなったということだ。建替え、スクラップアンドビルド、いつでもござれという感じだ。
「オリガミ」についてだが、これは昔のイメージがありすぎるので、比較のしようがない。かつての「オリガミ」は、おそらくヒルトン時代以来の伝統的「ダイナー」で、ほんとうにアメリカンな感じだったものだ。わさわさとして活気にあふれ、永田町の政治家がちょっとリラックスして、夜来て座っている姿なども目にすることができたものだ。妻が持っていた『スタジオ・ボイス』という雑誌に、「オリガミ」の外側、ガラス越しに見える日本料理割烹レストランへつながる渡り廊下などは、いかにもジェームズ・ボンドが歩いて来そうな雰囲気だ、と書いてあったのが印象深いが、まさにそんな感じ、昭和のアメリカ全盛時代を思わせたものだ。
 それが改築前に改装して白い壁、こげ茶色の調度となり、面白さが失せたと感じて足も遠のいたが、今回あらためて新装なった「オリガミ」もまたそのテイストを受け継いで、小奇麗ではあるが、あのちょっと猥雑な活気は、もう望むべくもないだろう。ただ「伝統の味」と称して、いくつかのメニューだけは残してある。私のお気に入りは、昔から変わらず「ナシ・ゴレン」だ。外国のホテルでもかなり注文して食べ比べたが、ここに優る味はない。かつてアメリカ大使館近くのある出版社で編集補助のアルバイトをしていたとき、たまに贅沢をして食べに来たものだ。今回久し振りに食して、変わらぬ美味に、豊かな心持ちになることができた。
 宿泊した夜の食事は青山の「トニーローマ」でコブ・サラダとスペアリブだったし、ずいぶんアメリカ風だったなと思う。
 日枝神社にも参ったし、赤坂TBS界隈、表参道から原宿あたりも散歩し、翌日は日本橋高島屋で買い物をして、日本橋から銀座まで歩いた。
 歳末風景を盛りだくさんに楽しんだというわけだった。

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第十九回萩・世田谷幕末維新祭り

○第十九回萩・世田谷幕末維新祭り
 オープンキャンパスで出校した帰り、松陰神社の前を通ると、「第十九回萩・世田谷幕末維新祭り」で、大変な賑わい。松陰神社境内には露店が立ち並び、お神楽は流れ、本殿前では神輿が担ぎ込まれて最後の手締めの最中。奇兵隊に扮した人々もいる。

shoin01.jpg松陰神社の鳥居です。向かって左に、会津の出店があります。

shoin04.jpg境内には、奇兵隊のものと思しき大砲まで飾られていました。

 今年はもちろん龍馬が人気で、関連書籍も多数販売していた。とはいえ土方のグッズもあるのがおかしい。
 隣の公園スペースには萩、山口の名産のテントが出て、酒や柚子汁を売っている。今年は会津はどうかな、と思っていたら、参道の一本隣側の通路に出ていたので、私は只見の「おやき」を買う。
 このフェスティバルは年々隆盛で、いまや世田谷の名物の一つだろう。松陰の墓所まで参る人はさすがに多くはないようだが、それでも神社に参拝の人々は列を成し、多少は敬神の復活かとも思え、ただのイベントに留まってはいないようだ。この十年で、すっかり境内が整備されて見違えるほど立派になったところに、そのことが伺えよう。
 世田谷線の駅までの松陰神社通りもにぎやかで、ヨサコイソーランの隊列も通っていった。

shoin03.jpgポスターです。下の方に、会津の協賛ということも書かれています。これを継続するというのも、大変な努力だろうと思います。










shoin02.jpg近くの若林小学校の子どもたちが作ったポスターです。境内に展示されているし、世田谷線の中吊りにもなっています。吉田松陰も、新選組も呉越同舟で、とてもいいではありませんか。

★ところで「龍馬伝」の近藤勇役、原田泰造はいいですね。あまり頻繁には観ていないのですが、旗本見回組の佐々木只三郎に足蹴にされ踏みつけられて、それでも不屈に目玉をきょろつかせる演技など、いかにも新選組の出自や悲哀まで感じさせて、なまなかのものではないと思いました。



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変なことばかりの一日

●変なことばかりの一日

 今日は、変なことばかりの一日だった。

 まず朝、ずっと昔に親しくしていただいた故人の夢を見た。
 どこか都内の、大きな通りに面した雑居ビルの二階にある小洒落た雑貨屋に入ると、その人がいる。
 その人が死んでいることは夢の中でも承知していて、それでも不思議ともなんとも思わず、「どうも、ご無沙汰しました」と挨拶して握手する。
 いろいろ話などをした後、その人とともに階段を下りて、通りに出る。私は再び店に行こうとするが、その人はもう上ってこない。「ああ(私は現実に戻っていくが)、この人は死んでいるから(来ないのだな)」と納得する。
 その後も夢は続くが、もう覚えていない。

 昼、某所の○○ダ珈琲店に入ると、休日なのでニュータウンファミリーで大混雑。コーヒーの他に野菜サンドを注文すると、調理場もてんやわんやだったらしく、大分待たせて持ってきたやつが、パンはふにゃふにゃでくねっている。それでも我慢して食べ始めたが、最後の方で、もうどこで取っていいのかわからないほど、身とパンとが入り混じっているのにはさすがに堪忍袋の緒が切れて、「ちょっと」と店員を呼びつける。「忙しいか知らないが、あんまりだろう。他の同じ店ではそんなことはないよ」「少々お待ちください」と残骸を調理場へ持っていって(わざわざそうして確かめるというのも怪しからん話だ)、ややあって戻ると「おっしゃるとおりですので、この御代は引かせていただきます」と言う。「(あたりまえだろう、とは言わずに)そうしてくださいよ」と、その場は穏便におさめる。
 ただのクレーマーと思われるのは業腹なので、また書類仕事も抱えていたし、さらにコーヒーを一杯注文して、なんとか作業を済ませて店を出る。その頃には人の波も引いて、戦争状態も終わっていた。

 最後は、もう夜、ボルボ240オンマニ号で帰宅途中、コンビニに寄って買い物を済ませ、さてエンジンをかけようとすると、うんともすんとも言わない。ラジオや警告灯は点くので、バッテリーではない。給油直後だったので、さては燃料ポンプか、セルモーターか? JAFと言ってもこの年式のボルボは手に負えないかもしれない、まずはオート・ボルタに電話、と思って社長にかける。
 とっくに閉店の時間だが、すぐ電話に出てくれて、症状を聞くと、「まずシフトレバーを一番下まで(つまり1速まで)降ろして、そしてまたPまで戻してください」と言われる。電源は入っているので、ブレーキペダルを踏んだらギヤは動き、指示通りにできた。「それでセルを廻してください」「廻します」とキーをひねると、見事にエンジンがかかる。
 狐に抓まれた気分で「どうなったんですか」と問うと、社長曰く「普通、そんな風にセルモータが頓死することは、まずないんです。一番考えられるのは、車を止めた際にギヤがPレンジの位置に十分に入りきらず、それで接触不良を起こしたというケースです」と、事もなげに、見事に説き明かしてくれた。要するに、こちらのポカ、不注意だった。以後気をつけなければ。
「いやありがとうございました、まるで神様に会ったみたいです」と、これはお世辞でもなんでもなく、本当の気持ちだった。「困ったときは何時でも結構ですからね」と明るい声で言うオート・ボルタ社長に心から礼を言って、それから後は、無事に帰宅。何かの大難を小難に切り抜けたかもしれない。

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