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復古ではなく

アヘン戦争への恨み、サイクス・ピコ条約とバルフォア宣言への恨み、黒船への恨み…。全部欧米に関わる。が、もう過去にしたい。日本も、その驥尾に付してしまったから口はばったいが。元に戻すのでなく、新しく作る。

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御存知

とにかく、自分の人生がうまく行かない憤懣を、軍国主義や国家主義に頼ることで解消しようとする人間どもが、世界中でこれ以上多くならないことを望む。

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宮崎駿「風立ちぬ」雑記

「風立ちぬ」雑記
 宮崎駿「風立ちぬ」を観た。夕食をしようとてたまたま入ったモールのシネコンで、今日が初日とあり、もともとヒコーキは好きだし、堀越二郎も小学生の頃から伝記で親しい。また、このきなくさい時代に、同じくヒコーキ好きとはいえ、なんでわざわざゼロ戦設計者を取り上げねばならなかったのかということにも興味があった。
 それで気が向いて、ふらふらと最終回チケット販売の行列に並んだ。掲示板には、もう残席僅少とある。順番が来て、「まだありますか」と聞くと、画面を見て「一番前、角のところ一つだけです」と言うので、「ではそこでお願いします」とチケットを買ったら、すぐに「完売となりました」と放送が入る。つまり、私のが最後の一枚だったというわけだ。つまりは「観ろ」ということだったのだろう。
 それで内容はどうだったかというと、私はジブリの映画は初めてなのだが、恐ろしく観念的かつ表現主義的なロマンティックで、百年も昔の小説のような作りに、まず驚いた。横の席の女性がしきりと涙を拭っていたのにも、たしかにお涙ちょうだいの道具立てであるとはいえ、これにも驚いた。なるほど宮崎駿とは、こうしたドラマトゥルギーの人なのか。現代アニメの才能は文学に先んじたのかと、ひそかに思いかけていたが、どうやらそうでもないらしい。まあ堀辰雄へのオマージュということなので、あえてそうしたベタなロマンにしたのかもしれないとも考えた。狂言回しのドイツ系ユダヤ人の登場も、定石通りだ。
 最終的には、「芸術家の業」を描きたかったのかもしれないとも思った。
 あとは鉄道ファンの蛇足としては、キューロクは客車を引かない。しかしこれも、後の絵ではちゃんとハチロクが引いていたので、これもジブリからの何かのチャレンジなのか。

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「ヤマト2199」覚え書き

「ヤマト2199」覚え書き
 いまだにアニメを見るのか、という謗りは甘んじて受けよう。考えてみれば70年代だって、大学生にもなってアニメを見るなどというのは外聞をはばかることだった。いわばその羽目を、「ヤマト」が外したのだ。私はちょうどその端境の世代の人間だ。
◆テロップに松本零士の名が(当然だが)出てこない。「完全に失ったのだな、わが子をなくしたようなものだな」という感慨がまず。
◆元のストーリーをおおむね忠実に守っている。無理のあるところを何とか整合させたという感じ。だからメッセージ到達時期を前倒ししているわけだ。当然、付随したサスペンスも生じてくる(ネタバレここまで)。
◆あらためて思ったのは、前回よりはるかに国粋的、軍国的な感覚にに、いかにも自然に移行していること。これが昭和を知らない平成世代への推移というものだろう。作戦暗号が日本神話だったり、軍歌を歌ったり、ヤマトが正規の軍組織として動いていたり、階級があったり。
 思えば、70年代にはPKOやISAFの概念はなかった。自衛隊はまだまだ陰の存在だった。たしかにヤマトに「艦長」はいたが、それ以外はみな平等で、たとえば古代は戦闘「班長」でしかなかった。「班長」。つまりヤマトは、学級組織で動いていたのだ。国民皆兵徴兵の準備段階である、つまり、ある部分は民主主義的でもあるが、他方ではその発展史から見ても歴然たる軍の簡易化組織である、「義務教育」のシステムで。軍に対するタブー意識がまだまだ強かった70年代に比して、そうした感情が急速に雲散霧消しつつある現在との相違を、まず思った。
 なにせ首相が「国防軍」などということばを、大っぴらに言い出す時代だから。

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花見異変

 今朝のテレビ、朝のテレビ、桜の早咲き、早散りで花見事業にも異変だという。
 まあ、もうこの時代に浮かれ騒ぎはやめておけ、という自然からのアドバイスだろう。
 いやこんな時代だからこそ、心を励まし、浮き立たせ、元気をつけたいという言い方や考え方もわかるが、だからといってそれをバブル期再来同様にやる必要はないだろう。
「騒ぎたいがために騒ぎたい」というのは、もうこりごりだ。

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カリタス

 カトリックの再生を希う。大乗仏教の再生を希うのと同様に。カリタス(慈悲)でだ。グローバル功利主義教はこりごりだ。無辜の民はお布施とお賽銭を巻き上げられるだけだ。だからイエスはマーケットをぶち壊したではないか。

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流言蜚語

ツイッターの短文は、とげとげしくて大嫌いだ。飲み屋や下宿でテレビを見ながら口をつく卑しいことばを、わざわざメディアで広めるな。これをし、流言蜚語という。

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手っ取り早く安心

 自分の内心の不満・憤懣・不安を解消したいがためだけに、自分の外側に投影したり、憎むために憎む心持ちになったりする人たちもいる。
 とにかく安心が得たいのだ。
 しかも、一番手っ取り早く。

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世界の主役

 日本は、別に世界の主役にならなくともいいし、新幹線で世界最高速にならなくともいい。仮に、結果的にそうなった、そうだったとしても、誇る必要などない。そんなのは、日本の文化ではない。
 そんなことは、お隣の赤い星の国にまかせておけばいい。

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東急文化会館雑記

東急文化会館雑記
 いよいよ16日に「ヒカリエ」の地下に東横線が乗り入れるようになるわけだが、かつてこの場所に位置していた東急文化会館の思い出を、いささか長いがここに残しておきたい。なおこれは、昔の日記の修正再録である。ちなみに東急文化会館そのものは、2003年の6月を以て閉館したので、なんとここの再開発には、十年という月日を閲したわけだ。
 昭和三十年代の初め、つまり一九五〇年代後半、生まれてまだ物心つかない頃から、東急文化会館には連れて行かれていた。当時の渋谷には、東横百貨店と、東急文化会館しかなかったのだ。
 東急文化会館の一階には「ユーハイム」があり、我が家はそこで菓子を買ってきた。よく母親がミートパイを食べ忘れて腐らせていたことを思い出す。もっともミートパイは、子供の口にはそれほどうまいものとは思われなかったものだ。
 また「ケテルス」の店もあり、ラング・ド・シャつまり猫の舌というチョコレート、それから名は忘れたが大きめのコインほどの平たく丸いチョコが円筒に入ったものなどを置いていたのを覚えている。
 二階に上がるとそこは銀座名店街で、あんみつで有名な「立田野」、着物の店(店名忘失)、「鳩居堂」その他が並んでいた。「立田野」のあんみつはあまり好きではなかったが、汁粉は好物だった。後で触れる「文化理髪店」の帰りに祖父に連れられ立田野に入り、自分は何を食べたか忘れたが、祖父がぜんざいを頼み、あまりに餡ばかりで食べかねていたのを見て、子供ながらに「ひとのかなしみ」のようなものを感じたことを、今もかすかな心の痛みとともに思い出す。
 この名店街と、そこから「東横」へ通じる空中通路は、最初で最後の迷子になった舞台でもある。どういうきっかけであったかは忘れたが(ここで待っていなさいと言われたのに従わず、自分で探しに出たのかもしれない)、ともかく迷子になり、そのあたりをさまよった。途中、一度心配そうに捜す母の顔とすれ違ったのだが、どうやら私はほって置かれたことに腹を立てていたらしく、声をかけなかった。その後で覚えているのは、どこかの店で女性の店員がいて、その横に母親がおり、そして大声で泣いている自分である。たぶん、別の場所かその店かで保護され、女店員に話をし、そこから母親に連絡がついたのだったろう。
 名店街に戻って、そこをどこまでもまっすぐに進むと、建物の中でも裏に回ったような感じとなって、そこが「文化理髪店」だった。私は祖父に連れられ、必ずここに髪を切りに来ていた。たいがい私は、散髪をした後買ってもらえるレゴを楽しみに、連れて来られていたような気がする。当時のレゴには、今のような人形などはなく、本当に基本的なブロックしかなかったが、それが逆に創意と創造力とを養ったと思う。そうしたブロックが小箱にちょっとずつ入っており(その小箱一箱だけで、小さなヒュッテとかエッソのガソリンスタンドなどが作れるようになっていた)、それがしだいに増えていくと、より大きな建物を組み立てられるので、それが楽しみだったのだ。
「文化理髪店」の並びのあたりには、もうひとつ別のレストランである「ジャーマン・ベーカリー」があって、ここに入るのも楽しみの一つだった。
「ジャーマン・ベーカリー」は、レストランというよりはむしろ、東京ではいまや普通のものになった、あのダイナーというジャンルの、アメリカ大衆食堂の雰囲気で作られていたように思う。
 ここで私が必ず食べたのが、チーズバーガーだった。それから、舌が火傷しそうに熱く、分厚い陶器のカップ(青い市松柄のロゴ入りボーダーがついていた)に入ったホットチョコレート、当時はココアと呼んでいたように思うが、これが実に甘く旨くて、今も忘れない味だ。
 後年、ニューヨークで本場のダイナーに入ってバーガーを注文し、出てきたそれにかぶりついた時、「ジャーマン・ベーカリー」のチーズバーガーと寸分違わぬ味だったことに驚愕し、かつ感激したものだが、考えてみると「ジャーマン・ベーカリー」の方こそ、アメリカのダイナーの味を忠実になぞっていたわけだ。
 ここからもわかるように、「ジャーマン・ベーカリー」は原宿の「キディ・ランド」などとともに、まだ敗戦国の面影が残る万博前の東京人にとって、本物のアメリカを知る窓だったのだ。
 あとは映画館と寄席。寄席は行かなかったが、映画館にはしばしば連れて行かれた。中学校の「社会科見学」授業として「ベン・ハー」や「ジュリアス・シーザー」、ミュージカル「オリバー!」、それにやたらと長いソビエト映画「ヨーロッパの解放」を観たことも覚えている。
 さて東急文化会館の思い出のおしまいは、最上階の「五島プラネタリウム」だ。小学生の頃、母に連れられて何度も行った。まず会場の周りを取り巻く円回廊に飾ってある星や宇宙や宇宙開発の写真を、飽きず眺める。たまにはショーケースに飾られている望遠鏡を見る(ところでこの望遠鏡のブランド名は「ミザール望遠鏡」だった。ミザールとはもちろん星の名に由来するのだろうが、当時の私は、「見る」筈の望遠鏡が、なぜ「見ざる」などという縁起でもない名をつけているのかと、会場の座席の背もたれカバーに記されているその広告を見るたびにおかしかったものだ)。
 そして売店で森永のチョコボール(いちばん早いキョロちゃん)を買ってもらって、いよいよ入場、座席に坐って始まりを待つ。
 まずは夕景。解説員が水平線の黒いシルエットを「これはどこです」という風に言って、だいたいの位置関係を分からせる。工場あり、デパートあり。このギザギザの屋根とクレーンの立つ工場のシルエットがなんとも物悲しく、これが私の工業地帯に対する、原初的なイメージを形成したものだと思う。それは後年読んだ、つげ兄弟の漫画の世界の雰囲気に、どこか相通ずるものがあるようだ。私はいつも、夜勤の工場で計器番でもしながら働きたいと思っているのだが、それもこのあたりに原因のひとつがあるかもしれない。
 やがて夜になり、惑星、恒星、星座、銀河、星雲……と話は広がっていく。あまりに何度も行き慣れたあまり、友人たちとともに、解説員に先んじて「火星! 土星! 木星!」などと叫んで叱られたこともある。
 そうして明け方、流星が飛び始めると、一回の終局だ。外へ出ると、売店でガガーリンの写真が表紙になっている『科学図鑑』を買ってもらって、そうして帰った。この雑誌はいつのまにか定期的に家に届いていたから、きっと母親が講読の手続きを取っていたのだろう。
 だが中学生になると、学校の位置関係から寄り道は自然と道玄坂の方へ回り、また東急プラザも東急本店もできたので、いつしか宮益坂の方からは足が遠のいてしまった。だから、それから後も、東急文化会館には、切手とコインの店、三省堂書店、オーディオや電化製品の店(店名忘失)、また母の編んでくれた毛糸帽子を落としたことなど、いくつかの思い出はあるが、私の記憶の中では、それなりに切実ではあるものの、もはやそれほど重くはない。それにセンチメンタルジャーニーなどしても、それほど生産的でもなかっただろうとも思う。
 だいいち、八十年代の終わり、最後に入った時の「ジャーマン・ベーカリー」は、すでに不良女子高生の溜まり場と化していたのだから。

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