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蓮の花

 長い間ずっと、蓮の花の上で、目を半眼に開き、薄笑いを浮かべて何もせずに、じっと坐っていたいと思ってきた。
 波乱万丈は、真っ平御免だ。子どもの頃最初にジェットコースターに乗せられたとき、どうすればこの恐怖から逃れられるかと考え、「そうだ、椅子の下に潜ってしまえばこの流動する外部の景色を見ないで済むのだ」と思いついて、そうしたことがある。じつに平安だった。補助バーなどついていない頃の、昭和30年代の遊園地での話だから、嘘ではない。
 喜びと悲しみとがもしも不即不離のペアならば(しかし楽しかった分悲しみは倍になるし、悲しいことで喜びは打ち消されてしまう。つまり、どだいこの両者は釣り合うペアではないというのが、私の固定観念だ)、私は悲しみなど一切感じたくないから、そうすると打つ手は一つ、要するに喜びも感じなければいい。つまり感情なぞ持たねばいい。したがって蓮の花の上と、こうなるのは当然の順序だ。
 そう鍼の先生に言っていたら、先生曰く、蓮の花ほど不安定なものはない、水の上に浮かんだり、細い茎の先に乗っていたりしているではないか、そんなぐらぐらしているところで泰然自若としていられるのはお釈迦様だからだ、我々はお釈迦様ではないよ、と。
 そんな考え方をしたことはこれまで全くなかったので、これには意表を突かれた。つまりお釈迦様というのは、ジェットコースターどころではない波乱万丈に巻き込まれ揺られつつ、なおかつその中でどっしりと構えているわけだ。もしこの命題を殊勝に敷衍すれば、蓮の花は世間、そして世間が極楽となっているということだ。そして相対的に観点を移せば、どんなに蓮の花に坐っても、動いているのは所詮自分の心、とこういうわけだ。
 何のことはない、禅ではないか。ジョン・レノンが言うように「降ったり晴れたりしているのは自分の心」ではないか。
 忌々しい話だ。


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