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東急文化会館雑記

東急文化会館雑記
 いよいよ16日に「ヒカリエ」の地下に東横線が乗り入れるようになるわけだが、かつてこの場所に位置していた東急文化会館の思い出を、いささか長いがここに残しておきたい。なおこれは、昔の日記の修正再録である。ちなみに東急文化会館そのものは、2003年の6月を以て閉館したので、なんとここの再開発には、十年という月日を閲したわけだ。
 昭和三十年代の初め、つまり一九五〇年代後半、生まれてまだ物心つかない頃から、東急文化会館には連れて行かれていた。当時の渋谷には、東横百貨店と、東急文化会館しかなかったのだ。
 東急文化会館の一階には「ユーハイム」があり、我が家はそこで菓子を買ってきた。よく母親がミートパイを食べ忘れて腐らせていたことを思い出す。もっともミートパイは、子供の口にはそれほどうまいものとは思われなかったものだ。
 また「ケテルス」の店もあり、ラング・ド・シャつまり猫の舌というチョコレート、それから名は忘れたが大きめのコインほどの平たく丸いチョコが円筒に入ったものなどを置いていたのを覚えている。
 二階に上がるとそこは銀座名店街で、あんみつで有名な「立田野」、着物の店(店名忘失)、「鳩居堂」その他が並んでいた。「立田野」のあんみつはあまり好きではなかったが、汁粉は好物だった。後で触れる「文化理髪店」の帰りに祖父に連れられ立田野に入り、自分は何を食べたか忘れたが、祖父がぜんざいを頼み、あまりに餡ばかりで食べかねていたのを見て、子供ながらに「ひとのかなしみ」のようなものを感じたことを、今もかすかな心の痛みとともに思い出す。
 この名店街と、そこから「東横」へ通じる空中通路は、最初で最後の迷子になった舞台でもある。どういうきっかけであったかは忘れたが(ここで待っていなさいと言われたのに従わず、自分で探しに出たのかもしれない)、ともかく迷子になり、そのあたりをさまよった。途中、一度心配そうに捜す母の顔とすれ違ったのだが、どうやら私はほって置かれたことに腹を立てていたらしく、声をかけなかった。その後で覚えているのは、どこかの店で女性の店員がいて、その横に母親がおり、そして大声で泣いている自分である。たぶん、別の場所かその店かで保護され、女店員に話をし、そこから母親に連絡がついたのだったろう。
 名店街に戻って、そこをどこまでもまっすぐに進むと、建物の中でも裏に回ったような感じとなって、そこが「文化理髪店」だった。私は祖父に連れられ、必ずここに髪を切りに来ていた。たいがい私は、散髪をした後買ってもらえるレゴを楽しみに、連れて来られていたような気がする。当時のレゴには、今のような人形などはなく、本当に基本的なブロックしかなかったが、それが逆に創意と創造力とを養ったと思う。そうしたブロックが小箱にちょっとずつ入っており(その小箱一箱だけで、小さなヒュッテとかエッソのガソリンスタンドなどが作れるようになっていた)、それがしだいに増えていくと、より大きな建物を組み立てられるので、それが楽しみだったのだ。
「文化理髪店」の並びのあたりには、もうひとつ別のレストランである「ジャーマン・ベーカリー」があって、ここに入るのも楽しみの一つだった。
「ジャーマン・ベーカリー」は、レストランというよりはむしろ、東京ではいまや普通のものになった、あのダイナーというジャンルの、アメリカ大衆食堂の雰囲気で作られていたように思う。
 ここで私が必ず食べたのが、チーズバーガーだった。それから、舌が火傷しそうに熱く、分厚い陶器のカップ(青い市松柄のロゴ入りボーダーがついていた)に入ったホットチョコレート、当時はココアと呼んでいたように思うが、これが実に甘く旨くて、今も忘れない味だ。
 後年、ニューヨークで本場のダイナーに入ってバーガーを注文し、出てきたそれにかぶりついた時、「ジャーマン・ベーカリー」のチーズバーガーと寸分違わぬ味だったことに驚愕し、かつ感激したものだが、考えてみると「ジャーマン・ベーカリー」の方こそ、アメリカのダイナーの味を忠実になぞっていたわけだ。
 ここからもわかるように、「ジャーマン・ベーカリー」は原宿の「キディ・ランド」などとともに、まだ敗戦国の面影が残る万博前の東京人にとって、本物のアメリカを知る窓だったのだ。
 あとは映画館と寄席。寄席は行かなかったが、映画館にはしばしば連れて行かれた。中学校の「社会科見学」授業として「ベン・ハー」や「ジュリアス・シーザー」、ミュージカル「オリバー!」、それにやたらと長いソビエト映画「ヨーロッパの解放」を観たことも覚えている。
 さて東急文化会館の思い出のおしまいは、最上階の「五島プラネタリウム」だ。小学生の頃、母に連れられて何度も行った。まず会場の周りを取り巻く円回廊に飾ってある星や宇宙や宇宙開発の写真を、飽きず眺める。たまにはショーケースに飾られている望遠鏡を見る(ところでこの望遠鏡のブランド名は「ミザール望遠鏡」だった。ミザールとはもちろん星の名に由来するのだろうが、当時の私は、「見る」筈の望遠鏡が、なぜ「見ざる」などという縁起でもない名をつけているのかと、会場の座席の背もたれカバーに記されているその広告を見るたびにおかしかったものだ)。
 そして売店で森永のチョコボール(いちばん早いキョロちゃん)を買ってもらって、いよいよ入場、座席に坐って始まりを待つ。
 まずは夕景。解説員が水平線の黒いシルエットを「これはどこです」という風に言って、だいたいの位置関係を分からせる。工場あり、デパートあり。このギザギザの屋根とクレーンの立つ工場のシルエットがなんとも物悲しく、これが私の工業地帯に対する、原初的なイメージを形成したものだと思う。それは後年読んだ、つげ兄弟の漫画の世界の雰囲気に、どこか相通ずるものがあるようだ。私はいつも、夜勤の工場で計器番でもしながら働きたいと思っているのだが、それもこのあたりに原因のひとつがあるかもしれない。
 やがて夜になり、惑星、恒星、星座、銀河、星雲……と話は広がっていく。あまりに何度も行き慣れたあまり、友人たちとともに、解説員に先んじて「火星! 土星! 木星!」などと叫んで叱られたこともある。
 そうして明け方、流星が飛び始めると、一回の終局だ。外へ出ると、売店でガガーリンの写真が表紙になっている『科学図鑑』を買ってもらって、そうして帰った。この雑誌はいつのまにか定期的に家に届いていたから、きっと母親が講読の手続きを取っていたのだろう。
 だが中学生になると、学校の位置関係から寄り道は自然と道玄坂の方へ回り、また東急プラザも東急本店もできたので、いつしか宮益坂の方からは足が遠のいてしまった。だから、それから後も、東急文化会館には、切手とコインの店、三省堂書店、オーディオや電化製品の店(店名忘失)、また母の編んでくれた毛糸帽子を落としたことなど、いくつかの思い出はあるが、私の記憶の中では、それなりに切実ではあるものの、もはやそれほど重くはない。それにセンチメンタルジャーニーなどしても、それほど生産的でもなかっただろうとも思う。
 だいいち、八十年代の終わり、最後に入った時の「ジャーマン・ベーカリー」は、すでに不良女子高生の溜まり場と化していたのだから。

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