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「割烹 白石」の思い出

●「割烹 白石」の思い出

 熱海に行こうかと思って、もう網代に近い伊豆多賀の温泉旅館「白石」をネットで探してみたら、二年ほど前に閉館になっていた。
「白石」は今では「割烹 白石」と呼んでいるが、昔から「観魚荘 白石」とも言った。旅館の建物は崖の中腹にあり、岩場を利用して海と仕切られた釣堀があって、獲れたばかりの魚を漁師が船で持って来て放してある。それを釣ると、その日の夕食に出してくれるというわけだ。
 ずっとずっと子供のころ、両親がどこかに旅行に行こうと相談していたとき、時刻表の巻末の全国旅館一覧から私が見つけ出して、ここはどうかと言ったのが、「白石」だった。ただどうも敷居の高い旅館だったらしく、基本的には誰かからの紹介がないと泊めない、「一見さんお断り」のようなところであったようだ。父がいささか心配げに電話で問い合わせをしていたその口調を、今でも思い出すことができる。ともかく何とか受け入れてもらえたらしく、そこに家族三人で出かけたのが、「白石」との付き合いの始まりだった。と言っても全部で十回も行ってはいないだろうが、いつも行くたびに、忘れずに親切にしてくれた。父の心臓病の養生にも寄ったこともあった。とくにご主人の母親、つまり旅館のおばあさんが私の母を気に入ったらしく、両親と私の一家が行くと、「今日はこれを使え」と、普段は仕舞ってある器を出してきたと、これは母が女将か女中さんから聞いた話だったそうだ。内風呂も温泉で、相模灘の海に面していて窓も大きく、母は夜明け方に空が白むのを見ながら入るのが好きだった。
 その「白石」も、あるとき火事を出して全焼してしまった。そのニュースを知ってしばらくしてから、私は母を車に乗せ、紅白のワインを持って見舞いに行ったことがある。火事の後はむしろそうしてゲンを祝うのだ、と母が言って、そうしたのだ。焼け残った一角、玄関から帳場や居住部分であったと覚えているが、そこの応接間で、女将が喜んで迎えてくれた。宿帳などすっかり燃えてしまったので、お得意さんを復元するのに苦労していると話していた。
 その後も葉書の案内は来ていたが、こちらも仕事の都合もあり、また両親も年老いて、すっかり足が遠のいた。改装成って、昼はランチなどもやるようになったというところまでは知っていたので、いつか行きたいなとは思っていた。
 そうして、ようやく機会が作れそうになって、ホームページでも今風に作ってはいないかとネットで探してみたら、あにはからんや閉館していたとは。無常な時の流れとはいえ、寂しいかぎりだ。

 話はまったく関係ないところに飛ぶが、ボルボ240オンマニ号のプラグチューンをしてもらっていたニッポンエミールという会社、じつはここは怪しい省エネクルマグッズである「ハイオクくん」というものを販売していたが、二年ほど前に公正取引委員会から排除命令を受けていた。久しぶりにネットで検索してみたら、サイトがなくなっている。たぶん、会社も畳んだのだろう。この会社は、他に「ウルトラヒューズ」というものも作っていて、どうやら電気工学的にはまったく効能もなかったらしい。ということは、プラグチューンにも、何の意味もなかったということか。だがそんなこととは別に、ここの社長は二年前の車検に合わせてプラグチューンを頼んだ縁で、かつて私の家に電話をかけてきて、「また新しいことを考えていてね」と(あるいは一杯入っていたかもしれない)話していたのだが、きっとその後すぐに排除命令の憂き目に遭ったに違いない。要は山師だったということだ。詐欺みたいなインチキでも、見ず知らずの客に人懐こく電話などして夢を語るなど、なんだか好きな人だったのだが、これも残念だ。

 親しみを覚えたものがこうして次々に消えて、思い出の中だけの存在になっていく。五十を過ぎると、人間、こうなっていくものなのだろうか。

☆「割烹 白石」「観魚荘 白石」の関係者の方、あるいはその後の情報などご存知の方で、もしこのブログをご覧になったら、ぜひ何かコメントをお寄せください。

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