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終戦記念日

●終戦記念日
 敗戦記念日、と呼ぶ人もいる。その通りだ。しかし「じゃあ次は勝ちたいのか」と聞きたくもなる。「なぜ負けたか」を問うのは、「次に勝つため」だけでもなかろう。いや「次にまた戦争をしたい欲求に勝つため」かもしれない。その方がずっと賢い。
 むかし母から聞いた、私の祖父の話。開戦の日、他の大人たちと笑いながら、「負けるに決まっている、勝ったアメリカ人たちがやってきたら、シルクハットをかぶって "How do you do?" と挨拶しに行くのだ」と言っていたそうだ。その同じ人が、敗戦の日、玉音放送を聞きながら涙をぽろぽろ流して「日本が負けた」と、(どういうわけか座敷に上げた)自転車を磨いていたそうだ。
 何の論評も加えるつもりはない。明治生まれの人のエートスとパトスだ。

 この日だけ参拝しに行く目立ちたがりの低劣人、軍服コスプレを見せびらかす莫迦、軍歌を演奏する勘違いの一団。今日の靖国は烏滸の沙汰だということは、フィールドワークをして知っている。じゃあ、参道の茶店で酒を飲んでいる老人たちは……? これについてはわからない、死んだ戦友や肉親とともに直会をしているのかもしれないから。戦争体験者の気持ちは軽々に忖度できない。
 でも英霊は、いつも静かに悼んでもらいたいと思っているのではないか。ナルシスティックでファナティックな政治的現世的デモンストレーションは喜ばないだろう。いやもっとやれ、ってか? そんな風に現世の人を焚き付けるのは、長州の山縣とか、そんな人だけでしょう。乃木さんはけっして喜ぶとは思えないのだが。

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ボルボ240、新潟弥彦、会津只見の旅

○ボルボ240、新潟弥彦、会津只見の旅

会津只見考古館にて 日付は前後したが、8月11日土曜日から12日日曜日にかけて、お盆前の夜、思い立って妻を連れ、ドライブに出かけた。夜じゅう走って、次の日戻ってくればいいやくらいのつもりだった。
 
 川越街道(254号線)で川越~藤岡、高崎に出て17号線を前橋~沼田、そこからはさすがに深夜の三国峠越えは避けて月夜野ICから関越道に入り、国境のトンネルを抜けて塩沢石打ICで降りてふたたび17号線をひたすら北上、長岡バイパスのあたりで空が白んで一気に夜明け。
 弥彦神社参詣、ドライブウェイで山頂。
 ドライブウェイを下り、いくつもの海水浴場を眺めながら海岸を走って(402号線)、新潟市内に入り、「朱鷺メッセ」の「ホテル日航」で休憩。
 新潟中央ICから磐越自動車道に入り、安田ICで降りて、290号線づたいに五泉~村松、栃尾~守門・入広瀬から252号線。六十里越。
 全国最高気温37℃にもかかわらず、ボルボ240オンマニ号のエンジンは快調、軽いタペット音もむしろ4気筒らしく、クラシカルで心地よく聞こえる。エアコンもつけ放しにも関わらず、水温計も一定したまま微動だにしない。
 県境を越え福島県に入り、田子倉ダム~只見。289号線に入り、大蔵。「会津只見考古館」見学。
 289号線を南下し、南郷~田島、そこから121号線に入って県境を越え、栃木県に入る。三依というところで名物のチタケという茸の入った蕎麦を食べ、後は一路東京を目指す。
 杉並木の間を通って今市~例弊使街道~鹿沼、293号線で都賀~葛生~田沼、県道で佐野~館林、そして122号線で蓮田、ここはバイパスが開通してすっかりスムースに通れるようになった。
 最後は川口から都内に入り、帰宅したのが夜9時半。ちょうど24時間の小旅行となった。

 渋滞もなく、ボルボ240オンマニ号はまったくよく走ってくれた。この話をしたら、きっとオート・ボルタの社長は仰天することだろう。

 なお詳しくは、「きぬのみち WEB SITE」の「旅の記録」のコーナーを参照のこと。

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我が家のお盆

○我が家のお盆
 我が家の簡単なお盆。マンションで、ベランダも狭いし、迎え火も送り火も焚けない。
07obon.jpg 佐野のジャスコで買った茄子と胡瓜の飾り物。正月飾りやクリスマスのオーナメントと同じで、こんなものでも商売になるのだ。と同時に、こういうことをやろうという新家庭もまた増えてきたのかもしれない。神社仏閣参詣が隆盛になっているのと同じ流れだろう。このあたりが、私がティーンだった70年代との最大の違いだ。それで私も、まともな仕来りも知らないでこんな略式をやる。
 後ろの額は、ガンダーラのミロク菩薩。手前の線香はインドのもの、そのすぐ背後の小さな蝋燭立てもやはりインドのもので、可愛らしい象がついている。蝋燭は土日の小旅行のさい、日曜日に新潟のホテル日航で買った地元土産のミニミニ蝋燭。「ありがとう」の文字が入っている。

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誕生日

○誕生日
テオブロマのケーキ 妻が誕生日を祝ってくれた。手製のちらし寿司に、チキン腿肉。デザートにはテオブロマのケーキだった。ありがたく戴いた。
 
 誕生日だというのに、あまりめでたくもないニュース。全_世_界_株_安に、小_池_防_衛_相_ア_メ_リ_カ_訪問(しかも小_池は防_衛_族から総スカンを食っている)。これに先日の南_北_首_脳_会_談_実_施というものを考え合わせると、ひとつの流れが見えてくるような気もする。
 取り越し苦労であればいい。

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熱中症寸前

●熱中症寸前
 今日は家の中にいても熱中症になりそう。エアコンがあるなしだけでもないような気もする。
 夜散歩も、さすがに今日はあきらめる。気温がまったく下がっていない。
 何年か前、エイサー調査に行ったときの沖縄の夜並みだ。一挙手一投足ごとに熱気が体に纏いついたことを思い出す。しかしそんな一夜、ある町のあるスナックで歌った「島唄」はわれながら素晴らしい出来だったと、いまでも思っている。島らっきょうさえあれば、泡盛がいくらでも入るのに。
 東京の熱帯夜ではそんなことは望むべくもない。
 いや、西瓜というものがあった。
 

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立秋、高野山別院参詣

○立秋、高野山別院参詣
 はや立秋だ。暑さは厳しいとはいえ、空、そして雲にははやくも秋の感じがあるのは不思議なものだ。
 今日は祖父の祥月命日に当たる。我が家は高野山真言宗なので、妻とともに高輪の高野山東京別院にてボルボ240オンマニ号高野山別院に供養に行く。ボルボ240オンマニ号で出発。名前もぴったり。
 去年まで自由に駐められたスペースにすべて番号が振られ、「契約駐車場」となっていたのには驚く。法事のときなどどうするつもりだろう。その他にも幼児供養塔など新しいモニュメントが作られ、そのあおりで仏足石が移動するなど、まったく商売熱心もいかがなものかと思わされる。しかし供養に来たのだから、今年も来られたのだからそれだけでありがたい。不平は控えよう。
 本堂内はいつに変らず静か。静かに拝む人、読経をする人などちらほら。私たちも線香を上げ、数珠を手に般若心経を唱え、薄い経木の塔婆に祖父の戒名と施主つまり私の名を書き供える。南無大師遍照金剛。
 さてその後は精進落とし。五反田のTOC(東京卸売センター)に行き、「レッサム・ヒリリ」というネパールカレーの店に入る。同じ密教系だからちょうどいいだろう。TOCは廉くて面白い店が沢山入っていて、私も妻もお気に入りだ。
 遅めの昼食を済ませた後は、国道1号を北上し、高輪~霞ヶ関~大手町、そして靖国通りから岩本町~両国、墨堤を通って向島ランプから首都高速~東北道と取り、佐野のプレミアム・アウトレットへと向かう。ボルボ240オンマニ号はどんどん走る。エアコンもまずまず。
 夏休みといえどもさすがにウィークデーらしく、広いアウトレットの中は比較的閑散。しかしおかげでゆっくりと店を見られた。敷地の隣りが田んぼなので、実りはじめた稲穂の香ぐわしい空気を吸ってリフレッシュもできた。
佐野プレミアム・アウトレット夕景 日が暮れてからプレミアム・アウトレットを出て、こんどは隣りのジャスコに行き、名物佐野ラーメンの店に入る。この辺り一帯はすっかり新都心化してたいていの郊外店は立ち並び、ゲームセンターやシネコンもあり、ジャスコの食料品フロアは24時間営業となって、まるで不夜城だ。
 穏やかな気分で一日を過ごし、国道4号線でのんびりと東京まで戻ったのだった。妻は江戸見物までできたと喜んだ。

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採点終了

○採点終了
 ようやく最後の採点を済ます。
 来年から、かなり教案計画を考えなければならないように思う。こちらの教えるべき材料と考察が増えてきたことと、学生の咀嚼能力との兼ね合いから、そうとうに刈り込む必要が出てきたと感じる。

 大学間も、完全に格差がついた。というよりも、大半の大学は、もはや必要ではないのでないか。
 即戦力のための人材を求めるならば、専門学校を充実すればいい。かれらは派遣社員として、求められた範囲の仕事しかこなさないし、またそれ以上のことは要求されない。それでいいし、それでなくては困る。つまり兵士だ。
 大学生は、即戦力である必要はない。かれらは Executive Personで あることが求められる。すなわち decision を make し execute する能力を持った人だ。つまり将校だ。
 ここから判るのは、現代日本では、いわゆるホワイトカラーの内の大部分が、デスク・ブルーカラー、あるいはオフィス・ブルーカラーとなっているということだ。
 高度経済成長期、雨後の筍のごとく大学が林立したとき、それは高度経済成長社会を支える事務職を大量に生産する必要からだった。だがこの人たちは、今よりはるかに平等に管理職、会社方針決定職になれるチャンスを持ち、またそれだけの需要もあり、そのためにこそ学科選抜試験を受け、合格し、入学し、高い専門性を持つ科目も曲がりなりにもこなして単位を取得し、卒業してきたのだ。だからこの人たちには「教養」があり、「知識」があり、なにより「判断力・決定力」が備わった。しかもそれは大学卒業後何十年にもわたってますます磨かれ、深められ、研ぎ澄まされていった。そうして全員で日本経済社会を支えたのだ。だから大量にホワイトカラーが出現しても、それはそれなりに社会的存在理由を持った。
 ところがバブル崩壊、構造「改革」、小_泉政権による日本破壊の中でこの構造は完全に崩壊し、教育の質の低下・少子化・格差社会化の現在、CEOだの何だのというアメリカ仕込の妙な称号を持つエグゼキューティブの数はほんの一握りでよくなった。したがって、そうした人材を養成すべき機関、すなわち大学の数もほんの一握りでよくなった。都合のいいことに、現実的に大学の二極分化、勝ち組大学と負け組大学がはっきりと存在し始めた。勝ち組大学は難解な学科入試で高い競争率のもとに選抜され、一方、負け組大学は「AO入試」で右から左に入学だ。すなわち、大半の大学は不必要となったのだ。時代・社会が変化しているのだから当然だ。
 ブルーカラーは移民、デスク・ブルーカラーは専門学校卒業生の派遣社員、そしてエグゼキューティブは「勝ち組大学」卒業生の正社員が、それぞれ担う。いずれこうした図式になるだろう。若年人口は減っていくのだから、ニートや職業難民は、どのみちどこかの職能カーストに吸収されていく。

 ところで、「組織力」が最も必要とされる「戦争」つまり「軍」において、最も重要な存在であるのは誰か。
 それは、「下士官」である。ローマ軍団は、百人隊長の力で勝ち進んだ。カエサルの『ガリア戦記』を読むといい。将校と兵士をつなぎ、組織を実効的な存在とするために不可欠なもの、それが下士官だ。かれらはブルーカラーであり、同時にホワイトカラーでなければならない。かれらは戦闘の猛者であり、デスクワークのエキスパートである。漢代中国の辺境における狼煙台警備隊の隊長に昇進するための最重要な資格は、「文書作成ができる」ということだった。下士官は千変万化の状況に対応して decision ができなければならない。でないと分隊は全滅し、それが小隊に及び、中隊、大隊……、はては全軍総崩れの壊滅だ。『コンバット』のサンダース軍曹を見よ、あるいはハインライン『宇宙の戦士』の機動歩兵隊ズイム軍曹を見よ。軍曹は兵士の面倒を見、同時に将校を鍛える。かれらはホワイトカラーの資質を持つブルーカラー、あるいはブルーカラーの働きを厭わぬホワイトカラーである。

 じつは私の本務校は、まさにこの「下士官たる人材」を育成してきた大学なのである。求人ポスターを見れば、そのことは一目瞭然だ。事務職員たちは、まさにその面魂だ。
 我が校は、これを強みとして、この格差社会に存在感を主張し、押し出していくべきなのではなかろうか。

「社会の軍曹を作ります」
 

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一日、家

○一日、家
 今日は一日、家で過ごす。午後一杯かかって、文書を一つ作成。スピードが落ちている。
 明日は広島原爆投下の日、一方イラクテロに備えたアメリカ新型装甲車MRAP開発というニュース。

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小_田_実告別式

○小_田_実告別式
 朝早くピキ氏より電話で起こされる。「小_田_実の追悼式があるので出ないか」との話。高校紛争世代なので思いが深いのだ。寝惚けた頭で承諾する。
 昼、ピキ氏とoda02b.jpg待ち合わせ。追悼会だというので、しかも市民運動家でもあったひとのことなので平服(もちろん地味なもの)でも可だろうと思って行ったら、とんでもない、青_山_斎_場には喪服の人々が参列する、堂々の告別式。ちょっと見ただけでも土_井_た_か_子が新聞社のインタビューに答え、福_島_瑞_穂、志_井_和_夫、辻_元_清_美、井_上_ひ_さ_し、吉_岡_忍など勢揃い。最初の弔辞は加_藤_周_一。
 いささかboldな言論者、というイメージだった小_田_実が、一貫してギリシア古典の専門家であったということは、ド_ナ_ル_ド・キ_ー_ンの弔辞で初めて知って、ああそれならこの人の民主主義認識は深く筋金入りだと、大いに認識を改めた。
 出棺のさいには拍手が起こり、その後斎場から青_山一丁目手前の小公園まで、外_苑東通りをデモ行進。先頭は鶴_見_俊_輔葬儀委員長。「小_田_実追悼デモで倒れoda01b.jpgるなら本望」とのこと。"W_e s_hall o_vercome"を歌い、「戦争はしないぞ」とときにシュプレヒコールをまじえながら。キ_ン_グ牧師、公_民_権運動……、頭を去来する。あの頃のアメリカ人はいい顔、真面目な顔だ。

 戦_後文化人、戦_後教養、戦_後民_主主義の時代が、また終わりを刻んだと思った。阿_久_悠のことも思い合わされた。列席の人々もほとんどが高齢。
 この人たちが一貫して抵抗し「たたかって」きたのは国家権力であり、その抵抗の拠り所として、この人たちはつねに「市民の理想」を対置してきたと思うのだが、今の10代~30代の世代にとっては(「ニューア_カ」よりもう一つ下以降の世代、と大まかに考える、「ネ_ッ_ト_イ_ナ_ゴ」の中核部分も含まれるだろう)、この人たちこそが「オピニオンリーダーとしての思想的権威」であり「マ_ス_ゴ_ミ」であり、「教育権力」であり、抑圧者として忌避と憎悪と嫉視感情の投影対象になってしまった、ということを、この人たちはついに理解することはできないだろう。年輪の上につねに表皮が重なっていってしまう業。
 現代はワ_イ_マ_ー_ル期を思い起こさせる状況だ、と弔辞を述べた人もいたが、その分析も直感も正しい。私の父は、現代を昭和初頭とよく対比する。閉塞状況を粗野な形で打ち破りたい社会的衝動は強まる一方だ。

 けれども、今回の安_倍_政_権_大_敗と考え合わせて、小_田_実はあるいは自_民_党の命運を道連れにしたのかもしれない、などとも思った。それは民_主_党は所詮第二自_民_党だろうが、ア_メリカグ_ローバリズムの権化である小_泉ファッシズムの傾きを多少なりとも揺り戻した日本人の「公共哲学としての市民道徳」が、いまだ危げにまたたきつつもふたたび点りはじめているかもしれないのだから。いずれ一時代を画した人だ。決定的にはまとめがつかないが、「さまざまなことを考えました、ありがとうございました」。合掌。(敬称略)

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スーパー・ジェッター

○スーパー・ジェッター
 久し振りにCG絵を描いた。
 「タイム・パトロール」と題して描いた。じつは「スーパー・ジェッター」の絵だ。版権物なのでご注意。ただし我がサイトは商業サイトではないし、観覧料、購読料を取っているわけでもないので、ご了承ください。
 スーパージェッターは、私の小学生時代のテレビマンガ(まだアニメとは言わなかった)だ。30世紀の少年タイムパトロールであるスーパージェッターは、過去へ逃亡する悪人ジャガーを追跡中に、タイムマシン同士が衝突して、20世紀の日本に不時着してしまう。止むを得ず20世紀にとどまることになったジェッターは、そのすぐれた知力と身体的能力、そして30世紀の科学力を駆使して、科学省の西郷長官や少女カメラマンのカオルと協力して、数々の難事件の解決に取り組むのである。
 脚本作製には、後の日本SF界の巨匠たちが加わっていたことでも有名なこの作品は、空中に浮くことのできる反重力ベルト、時間を30秒停止させることのできるタイムストッパー、撃っても人を傷つけないパラライザー銃、そして宇宙から海底まで行けない所のない、マッハ15のスピードを持つ万能タイムマシン流星号などのさまざまな舞台立てで、子供の心をわくわくさせた。また活躍の舞台は20世紀にとどまらず、ときには同僚のタイムパトロールなどもあらわれて盛り沢山だった。私が覚えているのは紀元前4世紀のマケドニアに行き、アリストテレスや若きアレクサンドロスに会うというストーリーだ。私が歴史好きになった遠因の一つには、こうしたタイムトラベルストーリーが大いに与っているものと、今にして思う。また感動的な話としては、ジェッターが少年野球のピッチャーに「30世紀の変化球」を教えて自信を取り戻させるというものもあった。
 この番組は、たしかふりかけの丸美屋が提供しており、ふりかけの何かを集めると景品としてジェッターが身につけているタイムストッパー兼トランシーバー兼時計が当たるようになっており、私はそれを持っていたのを覚えている。ふりかけ自体はあまり食べた記憶がなく、周りの大人たちが困りつつ処理したことだったろう。今思えば、勿体ないことをしたものだ。
 タイムマシン「流星号」のプラモデルも発売されていて、ちょうどその頃猩紅熱にかかり入院していた小学三年生の私は、回復安静期に、祖父が買ってきてくれた流星号の模型を、何個も作ったものだった。もちろん退院後のことだろうが、一緒に入った風呂の中で、祖父が湯に浮かべた流星号をゆらゆらと揺らしていた光景を今思い出したので書いておく。祖父の命日も近い、何かの供養だろう。
 過日、妻とカラオケに行き、そこでつい「スーパー・ジェッター」の主題歌を歌ったのだが、科白のところまで克明に覚えていた。それだけイメージが鮮烈なのだ。もちろん、ジェッターの姿も流星号の形も、ありありと脳裏に浮かべることができる。それでそのときに思いついたポーズを大事に温めていて、ようやく時間的にゆとりができたので描いたというわけだ。腰の反重力ベルトに手をかけながら空に浮き、トランシーバーで流星号を呼んでいるところだ。ほんとうは向きが逆なのだが、うっかりして左利きに描いてしまったので、左右を逆転させた。そのため若干構図が乱れたが、まあ仕方ないだろう。人体を描くときに丸を連ねる「マンガ描き」技法で下書きしてみた。
 昔は漫画家になりたいときもあったのだが、それなりに描けたので、まあまあ満足だ。
 

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