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水泡

 築き上げたものが水泡に帰す。そんな経験を、いま多くの人がしているに違いない。通勤の行き帰り、心身を病んでいると思しき人影を目にすることも多い。
 それが天災のみによるものであるならば、まだしも復興の契機を掴むことは可能かもしれない。いや今頃は、各地でその槌音が聞かれ始めているはずだ。
 だがそれが、あの人間が解放したエネルギー、しかも完璧にコントロールできているものと信じ、かつ信じ込まされて疑わなかったあのエネルギーの恐るべき負の部分によるものであったとき、それは物理的にも、また心理的にも回復不能な痛手を、人間に与えてしまった。私も含めて。
 心は冷え、何をするのも上の空だ。現実の手応えというものが失われてしまった。あのエネルギーの恐怖と不安の前には、すべてが儚い栄耀栄華だった。
 このうえ無常観を持たない人は、「一期は夢ぞ、ただ狂え」のつもりか。いや、そんな裏返した酔狂のセンスを持ち合わせている現代人なぞ、いはしない。ただの砂に首を突っ込んだダチョウであるだけだ。見ないようにしているだけだ。考えないようにしているだけだ。
 実はもはやすでに、みなわなのだ。

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怒りの毒

 根深い怒りがくすぶっていて、心から去らない。私をこのような運命に叩き込んだ、なにものかに対する怒りだ。
 横浜線に乗っていると、目の前に相模原の雄大な景色が広がる。そこに隈なく建ち並ぶ家々が、すっかり灰色に見える。この人たちも、希望や喜びなど無いに違いない。「あるんだよ」という声も聞こえる。どうだかわからない。あるとは思えないのが、今の私の心だ。失意のみ。
 毒が体中に回っていくのがわかる。
 神に対して最大限の警戒をしながら、薄氷の上を歩くつもりで、毎日を過ごす。生きる。

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蓮の花

 長い間ずっと、蓮の花の上で、目を半眼に開き、薄笑いを浮かべて何もせずに、じっと坐っていたいと思ってきた。
 波乱万丈は、真っ平御免だ。子どもの頃最初にジェットコースターに乗せられたとき、どうすればこの恐怖から逃れられるかと考え、「そうだ、椅子の下に潜ってしまえばこの流動する外部の景色を見ないで済むのだ」と思いついて、そうしたことがある。じつに平安だった。補助バーなどついていない頃の、昭和30年代の遊園地での話だから、嘘ではない。
 喜びと悲しみとがもしも不即不離のペアならば(しかし楽しかった分悲しみは倍になるし、悲しいことで喜びは打ち消されてしまう。つまり、どだいこの両者は釣り合うペアではないというのが、私の固定観念だ)、私は悲しみなど一切感じたくないから、そうすると打つ手は一つ、要するに喜びも感じなければいい。つまり感情なぞ持たねばいい。したがって蓮の花の上と、こうなるのは当然の順序だ。
 そう鍼の先生に言っていたら、先生曰く、蓮の花ほど不安定なものはない、水の上に浮かんだり、細い茎の先に乗っていたりしているではないか、そんなぐらぐらしているところで泰然自若としていられるのはお釈迦様だからだ、我々はお釈迦様ではないよ、と。
 そんな考え方をしたことはこれまで全くなかったので、これには意表を突かれた。つまりお釈迦様というのは、ジェットコースターどころではない波乱万丈に巻き込まれ揺られつつ、なおかつその中でどっしりと構えているわけだ。もしこの命題を殊勝に敷衍すれば、蓮の花は世間、そして世間が極楽となっているということだ。そして相対的に観点を移せば、どんなに蓮の花に坐っても、動いているのは所詮自分の心、とこういうわけだ。
 何のことはない、禅ではないか。ジョン・レノンが言うように「降ったり晴れたりしているのは自分の心」ではないか。
 忌々しい話だ。


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争い

 MとJの争いだが、私はMが勝つと見ている。なぜならNが「一見誠実で恬淡たる様子」を見せたからだ。日本人は判官贔屓だから、こうしたスタイルに弱い。但し内部崩壊しているところから見ると、遅きに失したかもしれない。結局は、人望がなかったということになるかもしれない。
 しかし日本が、ドイツ型ではなくイタリア型になるとは意外だった。

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オメガ因子

 その昔のアトムに、「アトラスの巻」という作品があった。後のリメイクアニメでは、アトラスは「裏アトム」という設定になっていたが、オリジナルではそんなことはない、別のロボットだった。
 ただしアトラスの意味合いとして昔から変わらずユニークだったのは、「オメガ因子」という回路を組み込まれていたことで、つまりその回路は、悪いことができるというプログラムなのだ。それとは反対に、アトムをはじめとする他のロボットたちは、すべていいことしかできないように設計されている。だからスカンク草井というニヒルな悪役が、アトムに向かって「悪いことができなきゃ、完全じゃないぜ」と喝破するのである。子ども心にも、よく覚えている。
 アトムとアトラス、善と悪、昼と夜、光と陰。二つ揃って、初めて世の中は成り立つ。生死もそうだろう。
 そんなことはよくわかる。自分が不遇だと思っていたとき、「日向ばかりだと日射病だ、日陰の涼しさが人を救うときもある」と考えが浮かび、慰められたこともある。
 ひるがえって、自分はどうかと思うと、悪の要素はほとんどない。悪いことを考えたり、悪意を持つ回路というものが、自分の心のなかには、どだいないのだ。善意を持ち、人を善意で見て、その人にも善意しかないとしか考えられない。人が自分に悪意を向けてきたりするとは、毫も考えないのだ。どんなに手ひどい目に遭ってもだ。そもそも回路がないのだから。それで何もわからないまま、傷つき、裏切られたと思う。人がその人同様、私がその人に悪意を持ち、その人を騙しにかかってくる、裏切ってくるという目で私を見ているのだとは、私は毛筋ほどにも思っていないのだ。後でそのことに、はじめて気が付くのみだ。そして、その体験を経験に変えるということも、またしない、いやできない。そんな学習回路も、また持ち合わせていないから。昔からロボットになりたいと思ってきたことには、そうした側面もあったのかもしれない。私は、アトムになろうとしたのだ。アトラスになることは、選ばなかったのだ。
 だが神は完全だ。なぜなら、善も悪も持っているから。そして、私は不完全だ。アトムと同様、善しか持っていないから。
 しかしそれゆえに、私が不完全なゆえに、いや私を不完全に作ったゆえに、神は私を憎み、妬み、嫉み、迫害を加えてくる。天馬博士がアトムをいじめたように。神は天馬博士だ。
 
 なぜなら、私はアトムだから。
 善人だから。
 「善」という「不完全」だから。
 オメガ因子を持っていないから。

*だがそうすると結局、私はパスカルの言うごとく、「天使の行いのつもりで外道をやっている」ことになるのか? それで人は私を煙たがるのか? 私は酷吏なのか? 孔子の輩が嫌われるのは、そのためか? 「預言者は、郷里では敬われない」のは、そのためか?

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意地悪

 意地悪の神(悪意の神)は、私がたとえわずかでも、殊勝な気持ちになることすら許さない。いくら私でも、時には多少なりとも感謝の気持ちを持ちたい、表明したいつもりになることもある。ところがそうすると、神は途端に、〈私が神に対して感謝の気持ちを持つことなど到底かなわない、あるいは持つつもりなど到底無理に思えてしまうほどの〉手ひどい、悪意に満ちた仕打ちやトラップやフェイントを仕掛けてくる。まるで、「お前はまだまだだぞ、お前はまだそんな澄まし返った殊勝な心持など、到底持つ資格はないのだぞ、そんな思いを持つことすら許されないのだぞ、そんな大それた思いをちょっとでも抱いたその罰として、こうやって、こうして分からせてやる、思い知らせてやる」と言わんばかりだ。
 試練と苦難のハードルを上げてくる、といえばきれいごとで聞こえはいいかもしれないが、だが何でそこまでしなければならないのだ。せっかく殊勝な心持になっているのだから、そこをうまく励まし、伸ばすように仕向けてくれればいいではないか。なんでわざわざそうした心の状態を押しひしぎ、打ちひしぎ、「そんな風な心の動きをして、結局きまり悪く損したな」とまで思わせて萎えさせるのか。そんなにされたら、鍛えられるどころか、反対に潰れてしまう。神なのだから、臨機応変、対機説法ができるはずではないか。槃得と文殊では、悟り方が違ったではないか。
 それでも、感謝の気持ちを持ちたいと思うのだ。そう思うのに。
 なぜそれを許してくれない。なぜそういう気持ちを持ったことを後悔させるような仕打ちをするのだ。
 だから意地悪の神、悪意の神だと言うのだ。ヨブはそうしていじめられた。
 この神は、私自身なのか。私の自我が、神に化けているのか。

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神とヒヨコ

 私が思うに、神とは大きな子供だ。私は、子供にいじめられるヒヨコだ。子供は、ヒヨコがどんなに弱い存在かなど、頓着ない。いじりまわして、ひっくり返して、さんざんに弱らせる。ヒヨコはそれでも、ピイピイと鳴きながら、懸命に後を追い、寄り添うが、子供はヒヨコをもてあそび続け、ついにはヒヨコは力尽きる。子供はヒヨコをいじめ殺すのだ。
 神が人間に対する態度とは、要するにこんなものだ。不条理で、残酷で、無慈悲だ。なぜなら、神は子供なのだから、当然だ。
 それでも人間の子供ならば、まだしもヒヨコを殺したことを後悔してめそめそ泣いたり、庭に墓を作って埋めたり、ときには思い出して哀れがったりもするだろうが、神にはそんな心の咎めなぞ、はなから皆無だ。全能の子供なのだから。
「神はそのひとり子を送られたほどに、人を愛された」などというのは、パウロか誰かの負け惜しみの世迷言だ。それが証拠に、イエスは「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と絶望して殺されたではないか。
 だから、イエスだけは信用できる。イエスだけが同情してくれる。イエスだけが共感してくれるのだ。思えば、その瞬間にいつも傍にいてくれる。
 観音様より、もう少し人間じみていて、いい。
 今夜も、NHKFM。

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殉教者

 テレビなど、まるで観る気がしない。ケーブルテレビでも契約するか。そうすれば、少なくともBBCとヒストリー・チャンネルくらいは観られるだろうか。BBC子どもチャンネルの番組には、なかなか印象深いものがいくつもある。英語の勉強にもなるし。それなので、もっぱらNHKFMばかりを聴いている。クラシックから邦楽まで過不足ない。夜は深夜便だ。
 殉教者は、だれに迫害されるのか。異教徒か。とんでもない、神に迫害されるのだ。神に迫害されて死ぬのが、殉教者だ。迫害される運命を作り出すのが、他ならぬ神だから。
 殉教者は、そうまでして邪険に扱われながら、なお母の後を泣きながら追う子のごとく、神を追っていくのだ。

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なぜこんな目に

 なぜこんな目に遭わねばならないのか、と、夜になるたび思う。だがすぐに、「もっと苦しい目に遭っている人は沢山いるではないか」という、内心の声が響く。藤村を見よ。子どもを三人も失い、妻を失い、過ちを犯した。だがあくまで、自己に沈潜していくのみだ。外に感情を投影しない。よく無感覚、無表情にならずに済んだものだ。とはいえ、笑った写真はない。そして、晩年はしばしば脂汗を流し苦しんだ。
 よくもあの運命を選んで生まれてきたものだ。
 もし私があの世に戻って、もう一人の、ディレクター然とした私が試写室の薄暗い席から立ち上がってこちらにやってきて、にやにや笑いながら「やあ、どうだった、今度の巻は」などとほざいたら、私はすぐさまその私に殴りかかって、奥歯と肋骨とを折ってやるつもりだ。
「とんでもない役を振りやがって。あんたは前の背もたれに足かなんかを上げて、スクリーンの俺が右往左往して苦しむのを、手を叩いて楽しんでいたんだろう。一寸の虫にも五分の魂だ。覚えておけ」
「冗談じゃない。お前がこの役をやりたいと言ったんだ。それに、よく考えろ。このシナリオを練ったのは、お前すなわち俺、俺すなわちお前だぞ」
「そんな利いた風なおためごかしなど、信じないし、聞きたくない。さあ覚悟して殴られろ。何本がいい。一本か、二本か、三本か。何なら奥歯じゃなく、肋骨にしてもいいんだぞ。それから、俺に手をついて謝れ。だが謝っても、俺はお前をぜったいに許さんからな」
 こんな光景を、夢想する。

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東京風景

 羽田から都心へ戻る途中の東京風景は、大震災前よりはるかに暗くなった。もう昔には戻らないだろう。それをし節電でよいことだと、言わば言え。私は、戻らない、と言っているだけだ。感懐を述べるのは自由だ。まちづくりとか、都市景観とかについて述べるつもりなのではない。
 この国の繁栄は、事実において終わった。
 あのとげとげしく見えた21世紀最初の十年が牧歌的に思えるほどの、そんな時代が来た。

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