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意地悪

 意地悪の神(悪意の神)は、私がたとえわずかでも、殊勝な気持ちになることすら許さない。いくら私でも、時には多少なりとも感謝の気持ちを持ちたい、表明したいつもりになることもある。ところがそうすると、神は途端に、〈私が神に対して感謝の気持ちを持つことなど到底かなわない、あるいは持つつもりなど到底無理に思えてしまうほどの〉手ひどい、悪意に満ちた仕打ちやトラップやフェイントを仕掛けてくる。まるで、「お前はまだまだだぞ、お前はまだそんな澄まし返った殊勝な心持など、到底持つ資格はないのだぞ、そんな思いを持つことすら許されないのだぞ、そんな大それた思いをちょっとでも抱いたその罰として、こうやって、こうして分からせてやる、思い知らせてやる」と言わんばかりだ。
 試練と苦難のハードルを上げてくる、といえばきれいごとで聞こえはいいかもしれないが、だが何でそこまでしなければならないのだ。せっかく殊勝な心持になっているのだから、そこをうまく励まし、伸ばすように仕向けてくれればいいではないか。なんでわざわざそうした心の状態を押しひしぎ、打ちひしぎ、「そんな風な心の動きをして、結局きまり悪く損したな」とまで思わせて萎えさせるのか。そんなにされたら、鍛えられるどころか、反対に潰れてしまう。神なのだから、臨機応変、対機説法ができるはずではないか。槃得と文殊では、悟り方が違ったではないか。
 それでも、感謝の気持ちを持ちたいと思うのだ。そう思うのに。
 なぜそれを許してくれない。なぜそういう気持ちを持ったことを後悔させるような仕打ちをするのだ。
 だから意地悪の神、悪意の神だと言うのだ。ヨブはそうしていじめられた。
 この神は、私自身なのか。私の自我が、神に化けているのか。

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