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実現

 子どもの時は、ずっとロボットであればいいと思っていた。感情を持たなくて済むからだ。感情があるから、悲しい思いや嫌な思いをしなければならなくなる。では楽しい思いは? いやいや、楽しい思いをした分、それだけ嫌な思いのマイナスの分量が大きく多くなる。だから、楽しい思いもいらない。つまり、感情はいらない。そのためには、ロボットであればいい。
 長じては、修道士になりたかった。そして、最後は遍路になり、野垂れ死ぬ。いつも目を半眼に開き、じっと蓮の花の上に坐っていたい。一切の波乱や起伏は、金輪際御免だ。
 ところで、大震災後の現在の状態はどうか。感情も、心も、冷え切った。高揚感など、一切起きてこない。ヤマトの波動エンジンが、かかりそうでシュ~ンと落ちてしまう、ちょうどあの場面の感じだ。つまり、感情が出ない。楽しいことも、嬉しいことも、まったくない。いや、怒りや嫌な思いの炎も、もはや焚火の後の消えかかりの風情だ。
 とすれば私は、まさに自分の思い通りになってきている。自分の思いや望みが、見事に実現してきているではないか。
 これこそが、私の望んだことなのだな。
 今、そう思う。

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化ける自我

 ものごとが自分の思った通りに動いたり流れたりしないとき、そういうときに自我は「意地悪の神」「悪意の神」を設定し、そこに自分の怒りを投影する。
 結局、自我は自分に対して戦っているのだ。そうしてその毒で、自分も自我自身をも蝕んでいく。
 私の自我は、自分自身を守りたくて、守り抜きたくて、ヒステリックにわめき叫んでいる。そのエネルギーは強烈だ。そしてそのためには、ありとあらゆる手だてを尽くす。セルフに化け、阿頼耶識に化け、虫も殺さぬ大善人に化け、清らかそのものの聖人に化ける。

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恩寵か

 試練、苦難は、成長のための修練と鍛錬としての神の恩寵だ、という考え方がある。
 何のための成長か。どこでその成長は終わるのか。その果実は、いつどこで味わうことができるのか。

「ああこれで成長しきった」と思った瞬間に死んだら、その成長は、いったい何のためなのか。この世でその成果を回収し、体験し、楽しむことはできないのか。だったらそこに、何の意義と意味があろうか。「この世のことはこの世で片が付く」のではないのか。一生苦しみ、悩みぬいて死ぬことが、はたして成長のための恩寵なのか。そんな考え方は、所詮は不条理で残酷なサディストである神にいじめられ、迫害される敗者や殉教者のマゾヒズム、自己慰藉に過ぎないのではないか。
 それは試練や苦難ではない。神からのしごきであり、いじめであり、拷問であり、ハラスメントだ。意味のない嫌がらせだ。なぜなら、そこには成長の契機のかけらも見いだせないからだ。私は、しごきは大嫌いだ。

 こうした考えが、どうしても頭から離れない。自我もしくは末那識の、強烈な自己防御の絶叫かも知れないが。
 私には、自我の破壊される「回心」など先途程遠いどころか、もはやあり得ないかもしれない。

 

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あの世からのデバイス

 自分が嫌いだから「自分を勘定に入れず」行動する、というのはどうだろうか。
 自己犠牲というのは、自分を嫌い憎むから、自分を捨て、自分を殺すのだろうか。
 少なくとも、私にはそういう傾向がある。というか、ほとんどそうだ。
 自分なんぞなくていい、と何度思ったことか。自分などというものがあるから、余計な執着や、苦しみが生まれる。
 なんで人間は、そんなものを持ち合わせて生まれさせられてきてしまったのか。
 誰が生んだのか。誰がそんな設定をしたのか。ずっとそう思い続けている。
 この世の生身の人間を、あの世の操り人形に、あの世のマテリアル的実現手段としてのデバイスにしたのは誰だ。
 そいつは、サディストで、同時にマゾヒストだと思う。
 そう思う。

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ある研究会で考えたこと

ある研究会に出席して考えた。
自分を憎むが人を愛する、ということができるだろうか。

自分を愛して大切にしない人間が、人のことを思いやれるはずがない。愛を知らぬのだから。
しかしそれなら、「アラユルコトヲジブンヲカンジヤウニイレズニ」というのはどうなる。
自分を愛することと、利己主義とは違う。
あらゆることを自分を勘定に入れない、そういう自分を愛することか。
「今日も生きた、お前はよくやった」と、毎晩、唱える。

「自分を誉めてやりたい」というのは、傲慢ではないのだ。

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電車の音

 今住んでいるところからは、夜になると電車の音がよく響いてくる。それで、思い出を誘われる。鉄道の記憶を記しておく。
一.祖父母の家に、泊まりがけで連れて行かれる時があった。夕方に家を出る。井の頭線で渋谷駅を出発するころは、外は真っ暗だ。神泉のトンネルを出たら、もう駒場東大から永福町までの沿線は、ただの野っ原だ。走っていく電車のすぐ前の線路だけが、暗い前照灯に照らされてぼんやりと見えるだけだ。淋しいところへ行くものだ、と思って、小さいころの私は乗っている。
二.風呂に入る。風呂場の窓の外から、宮下公園あたりを走る、山手貨物線の蒸気機関車の汽笛が聞こえてくる。「ぼおっ」というふうに聞こえる。寝床に入る。寝室の窓からは、東横百貨店の時計塔の文字盤の明かりが見える。「長い針が上まで来たら寝ようね」と言われる。まだ寝たくないのだが、仕方ない。山手貨物線の音が聞こえる。
三.家族で鶴巻温泉に来ている。日帰りで来て、部屋で夕食を食べ、帰るのだ。客室の窓からは、小田急線が走るのが見える。もう海老名あたりから先は、茶色い旧型車両しか走らない。飽きず眺めているうちに日が暮れる。暗い中、窓の明かりをちらちらさせながら、小田急の電車が走ってくる。走っていく。
 こう書いている今も、電車の音が響いてくる。中原中也の詩も、頭に浮かぶ。

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感懐

 何も書く気が起きないというのが正直なところ。
 生活は少し流れ始めた。しかしまだ5割7、8分というところか。
 1972年石油ショック以前には決して戻れないと思ったし、事実戻れなかったのと同様に、3.11以前の日本と暮しには、もう絶対に戻れないのだ。それでも1972年以後、日本は牛歩のごとく歩み、それは少しは調子に乗りすぎたこともあったが、それでもようやっと2011年現状まで辿り着いてきていたのに、すべてが駄目になってしまった。政治・経済・人心には毒が回り、それは体内からは流れ出ては行かないだろう。

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印象派覚え書き(BS朝日を観ていて)

●印象派覚え書き(BS朝日を観ていて)

kanume.jpg
 
 スーラとかピサロとかシニャックとかは、色彩を光点に分割したが、結局それが生んだのはカラーテレビで、それはハイビジョンにいたって、現実を越えて「リアル」になった。つまり、現代は、かれら印象派の理想が皮肉にも現前化・具現化した、そうした時代になったのだ。
 またドガやロートレックは、表現主義や未来派とも合して、二十世紀後半の、本の挿絵を生んだ。さらには、MANGAとなったと言ってもいいだろう。
 十九世紀末から二十世紀初頭の現代音楽が、映画のサントラになってしまったのと同様だ。
 結局、百年前のArtは、商業主義しか生まなかったのか?

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BS日本・こころの歌はシュルレアリズムだ

○BS日本・こころの歌
 1月10日の話だが、夜、BS日テレにチャンネルを合わせたら、「BS日本・こころの歌」という番組をやっていた。
 出演しているのは、「フォレスタ」という音大卒業生からなる合唱グループで、グーグル検索すれば沢山説明が出てくるが、私はこのたび初めて知った。
 実力はありそうだし、声は綺麗でよく通るし、信頼も置けそうで、それはもう全然問題ないのだが、番組そのもの構成というか、作り方が何というか、私には衝撃的だった。
 まずかれらは背筋を伸ばして直立不動、しかもそれぞれ離れて独立した台になっている小ステージの上に立ち、マイクは顔の前に水平に構えて朗々と歌い上げ、そのスタイルは、近年実に珍しい。
 さらに驚くのはスタジオの舞台背景装置で、とにかく観てほしいと言うしかないが、私が思うに、かれらの姿勢、発声、演奏スタイルに、この背景、スポットが当たったり、また暗くシルエットになったりする古典的照明技法、これらがすべて相俟って、およそこの世のものとは思われない、むしろ超現実的空間がそこには現出しているように見えてしまう。
 マグリットやエルンスト、キリコなどのシュルレアリストたちにこの番組を見せたら、大いに喜ぶか、それとも「負けた!」と臍を噛むか。ともかく二十世紀前半にかれらの感性がいちはやく感得したビジョンが、おそらくそんなことは毫も考えていないであろうテレビマンによって実現どころか、大真面目に、そしてはるかに乗り越えられてしまう、ついにそんな時代に来たのだと、私は感じたのであった。
 ちょうど国立新美術館でシュルレアリズム展が開かれる、その予告のポスターを駅で目にしていたので、しかも酔余の帰宅ということもあって、余計にそう感じたのかもしれない。

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正月らしさ

○正月らしさ

 箱根駅伝は母校の優勝。どきどきするので、ラジオをつけたり消したりしながら聴く。ただ雰囲気が好きなので、あまり勝負がかかるものはいやだ。節目節目の、風物詩とでもいうものだ。
 同じことで、NHKラジオ第一放送の「新春おめでた文芸」も、なくてはならない。これを聴かないと、やはり正月らしさが、いまひとつ物足りなくなるのだ。

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