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秋葉原惨劇

●秋葉原惨劇

「人から必要とされない」という感覚。

自律できない人間は他律を求める。

そして「犯罪による裁き」という究極の他律を求める。

しかもそれは「追跡・逮捕」によって究極に「人から必要とされる」ことでもある。

宮澤賢治の23歳のときの作品に「復活の前」がある。将来への不安、家業に対する嫌悪、父との対立が渦巻く精神状態の中で書かれた散文詩である。

その中に、

戦が始まる、ここから三里の間は生物のかげを失くして進めとの命令がでた。私は剣で沼の中や便所にかくれて手を合せる老人や女をズブリズブリとさし殺し高く叫び泣きながらかけ足をする。

という部分がある。

なんとここしばらく繰り返される惨劇を思わせるではないか。賢治は、「よだか」のように孤独感と疎外感に悩まされる人間でもあった。

一方、この散文には、日清日露の戦争の残響、日中戦争の予兆がみな含まれるが、この年は第一次世界大戦終了、シベリア出兵の年でもある。

そして「よだか」も、おもねることの巧みな「狐」も、最後は殺されて「薄く笑って」死んでいくのだった。

より大きな惨劇 ── 戦争。

献花台に見られる浄化。

選択を過たないように。

(だがあれだけ携帯に書き込んでいるのに、どうしてそれが「自己省察」として昇華されぬまま「実行」に結びつくのか?)

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