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神参り

○神参り
 冬至も過ぎて、これからは一陽来復。今朝の太陽はもう輝かしく、ベランダで草木に水をやっていると、背中がじりじりと暑いようだった。
 昔は冬至はミトラの誕生日だし、後にイエスの誕生日になるし、新年元旦と言ってもいいだろう。
 それで今日は、地元の氏神と一ノ宮にお参りしてきた。風は温かく、日射しもおだやかで、恰好の日和だった。氏神様には新しい社務所ができたが、古いものもそのまま残っていて、どう使うのか。宮司もいなくて氏子によって維持されているが、もっと隆盛になってほしいものだ。ニュータウンの新住民たちにも勧進に回ったら、結構援助してくれるかもしれない。大晦日にはそれなりに初詣の行列になるようだから。
 同じことは武蔵一ノ宮にも言えるので、ここは宮司はいるらしいが常駐はしていない。だからお札やおみくじやお守りをいただけるのは、たぶん正月三箇日だけだ。聖蹟桜ヶ丘の駅からすぐのところで、神域もそれなりに広いのだから、再興の余地は大いにあると思うのだ。
 私の知る限り、ここ数年、21世紀に入ってから見違えるように整備の成った神社は、いくつもある。松陰神社しかり、代々木八幡神社しかり。いや、地方の神社だってそうだ。前世紀のことが嘘のようだ。
「結局、こうした近傍の自覚が、いちばん遅れているのかなあ」と言っていると、妻が「(自覚していてもその分)みんな都心の神社に行っちゃうんじゃないかしら」と、正鵠を射たことを言った。
 やはりブランドなのだろうか。縁結びとか、霊験あらたかとか、著名人ゆかりとか。まあ中世でも、衰微した神社仏閣は、みんなそこを梃子に復活していったのだろう。高野聖も伊勢御師も、そうした存在だ。そうすると、地元の氏神などにそうした余波が及ぶのは、まだ遠い先のことかもしれない。
 しかし、「苦しいときの神頼み」ばかりでは、やはりまずい。それだと再び「宗教の阿片化」だろうからだ。
 そうならずに、敬神や敬虔さの自覚につながればいいのだがと思う。

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