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意地悪

 意地悪の神(悪意の神)は、私がたとえわずかでも、殊勝な気持ちになることすら許さない。いくら私でも、時には多少なりとも感謝の気持ちを持ちたい、表明したいつもりになることもある。ところがそうすると、神は途端に、〈私が神に対して感謝の気持ちを持つことなど到底かなわない、あるいは持つつもりなど到底無理に思えてしまうほどの〉手ひどい、悪意に満ちた仕打ちやトラップやフェイントを仕掛けてくる。まるで、「お前はまだまだだぞ、お前はまだそんな澄まし返った殊勝な心持など、到底持つ資格はないのだぞ、そんな思いを持つことすら許されないのだぞ、そんな大それた思いをちょっとでも抱いたその罰として、こうやって、こうして分からせてやる、思い知らせてやる」と言わんばかりだ。
 試練と苦難のハードルを上げてくる、といえばきれいごとで聞こえはいいかもしれないが、だが何でそこまでしなければならないのだ。せっかく殊勝な心持になっているのだから、そこをうまく励まし、伸ばすように仕向けてくれればいいではないか。なんでわざわざそうした心の状態を押しひしぎ、打ちひしぎ、「そんな風な心の動きをして、結局きまり悪く損したな」とまで思わせて萎えさせるのか。そんなにされたら、鍛えられるどころか、反対に潰れてしまう。神なのだから、臨機応変、対機説法ができるはずではないか。槃得と文殊では、悟り方が違ったではないか。
 それでも、感謝の気持ちを持ちたいと思うのだ。そう思うのに。
 なぜそれを許してくれない。なぜそういう気持ちを持ったことを後悔させるような仕打ちをするのだ。
 だから意地悪の神、悪意の神だと言うのだ。ヨブはそうしていじめられた。
 この神は、私自身なのか。私の自我が、神に化けているのか。

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神とヒヨコ

 私が思うに、神とは大きな子供だ。私は、子供にいじめられるヒヨコだ。子供は、ヒヨコがどんなに弱い存在かなど、頓着ない。いじりまわして、ひっくり返して、さんざんに弱らせる。ヒヨコはそれでも、ピイピイと鳴きながら、懸命に後を追い、寄り添うが、子供はヒヨコをもてあそび続け、ついにはヒヨコは力尽きる。子供はヒヨコをいじめ殺すのだ。
 神が人間に対する態度とは、要するにこんなものだ。不条理で、残酷で、無慈悲だ。なぜなら、神は子供なのだから、当然だ。
 それでも人間の子供ならば、まだしもヒヨコを殺したことを後悔してめそめそ泣いたり、庭に墓を作って埋めたり、ときには思い出して哀れがったりもするだろうが、神にはそんな心の咎めなぞ、はなから皆無だ。全能の子供なのだから。
「神はそのひとり子を送られたほどに、人を愛された」などというのは、パウロか誰かの負け惜しみの世迷言だ。それが証拠に、イエスは「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と絶望して殺されたではないか。
 だから、イエスだけは信用できる。イエスだけが同情してくれる。イエスだけが共感してくれるのだ。思えば、その瞬間にいつも傍にいてくれる。
 観音様より、もう少し人間じみていて、いい。
 今夜も、NHKFM。

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殉教者

 テレビなど、まるで観る気がしない。ケーブルテレビでも契約するか。そうすれば、少なくともBBCとヒストリー・チャンネルくらいは観られるだろうか。BBC子どもチャンネルの番組には、なかなか印象深いものがいくつもある。英語の勉強にもなるし。それなので、もっぱらNHKFMばかりを聴いている。クラシックから邦楽まで過不足ない。夜は深夜便だ。
 殉教者は、だれに迫害されるのか。異教徒か。とんでもない、神に迫害されるのだ。神に迫害されて死ぬのが、殉教者だ。迫害される運命を作り出すのが、他ならぬ神だから。
 殉教者は、そうまでして邪険に扱われながら、なお母の後を泣きながら追う子のごとく、神を追っていくのだ。

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なぜこんな目に

 なぜこんな目に遭わねばならないのか、と、夜になるたび思う。だがすぐに、「もっと苦しい目に遭っている人は沢山いるではないか」という、内心の声が響く。藤村を見よ。子どもを三人も失い、妻を失い、過ちを犯した。だがあくまで、自己に沈潜していくのみだ。外に感情を投影しない。よく無感覚、無表情にならずに済んだものだ。とはいえ、笑った写真はない。そして、晩年はしばしば脂汗を流し苦しんだ。
 よくもあの運命を選んで生まれてきたものだ。
 もし私があの世に戻って、もう一人の、ディレクター然とした私が試写室の薄暗い席から立ち上がってこちらにやってきて、にやにや笑いながら「やあ、どうだった、今度の巻は」などとほざいたら、私はすぐさまその私に殴りかかって、奥歯と肋骨とを折ってやるつもりだ。
「とんでもない役を振りやがって。あんたは前の背もたれに足かなんかを上げて、スクリーンの俺が右往左往して苦しむのを、手を叩いて楽しんでいたんだろう。一寸の虫にも五分の魂だ。覚えておけ」
「冗談じゃない。お前がこの役をやりたいと言ったんだ。それに、よく考えろ。このシナリオを練ったのは、お前すなわち俺、俺すなわちお前だぞ」
「そんな利いた風なおためごかしなど、信じないし、聞きたくない。さあ覚悟して殴られろ。何本がいい。一本か、二本か、三本か。何なら奥歯じゃなく、肋骨にしてもいいんだぞ。それから、俺に手をついて謝れ。だが謝っても、俺はお前をぜったいに許さんからな」
 こんな光景を、夢想する。

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東京風景

 羽田から都心へ戻る途中の東京風景は、大震災前よりはるかに暗くなった。もう昔には戻らないだろう。それをし節電でよいことだと、言わば言え。私は、戻らない、と言っているだけだ。感懐を述べるのは自由だ。まちづくりとか、都市景観とかについて述べるつもりなのではない。
 この国の繁栄は、事実において終わった。
 あのとげとげしく見えた21世紀最初の十年が牧歌的に思えるほどの、そんな時代が来た。

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実現

 子どもの時は、ずっとロボットであればいいと思っていた。感情を持たなくて済むからだ。感情があるから、悲しい思いや嫌な思いをしなければならなくなる。では楽しい思いは? いやいや、楽しい思いをした分、それだけ嫌な思いのマイナスの分量が大きく多くなる。だから、楽しい思いもいらない。つまり、感情はいらない。そのためには、ロボットであればいい。
 長じては、修道士になりたかった。そして、最後は遍路になり、野垂れ死ぬ。いつも目を半眼に開き、じっと蓮の花の上に坐っていたい。一切の波乱や起伏は、金輪際御免だ。
 ところで、大震災後の現在の状態はどうか。感情も、心も、冷え切った。高揚感など、一切起きてこない。ヤマトの波動エンジンが、かかりそうでシュ~ンと落ちてしまう、ちょうどあの場面の感じだ。つまり、感情が出ない。楽しいことも、嬉しいことも、まったくない。いや、怒りや嫌な思いの炎も、もはや焚火の後の消えかかりの風情だ。
 とすれば私は、まさに自分の思い通りになってきている。自分の思いや望みが、見事に実現してきているではないか。
 これこそが、私の望んだことなのだな。
 今、そう思う。

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化ける自我

 ものごとが自分の思った通りに動いたり流れたりしないとき、そういうときに自我は「意地悪の神」「悪意の神」を設定し、そこに自分の怒りを投影する。
 結局、自我は自分に対して戦っているのだ。そうしてその毒で、自分も自我自身をも蝕んでいく。
 私の自我は、自分自身を守りたくて、守り抜きたくて、ヒステリックにわめき叫んでいる。そのエネルギーは強烈だ。そしてそのためには、ありとあらゆる手だてを尽くす。セルフに化け、阿頼耶識に化け、虫も殺さぬ大善人に化け、清らかそのものの聖人に化ける。

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恩寵か

 試練、苦難は、成長のための修練と鍛錬としての神の恩寵だ、という考え方がある。
 何のための成長か。どこでその成長は終わるのか。その果実は、いつどこで味わうことができるのか。

「ああこれで成長しきった」と思った瞬間に死んだら、その成長は、いったい何のためなのか。この世でその成果を回収し、体験し、楽しむことはできないのか。だったらそこに、何の意義と意味があろうか。「この世のことはこの世で片が付く」のではないのか。一生苦しみ、悩みぬいて死ぬことが、はたして成長のための恩寵なのか。そんな考え方は、所詮は不条理で残酷なサディストである神にいじめられ、迫害される敗者や殉教者のマゾヒズム、自己慰藉に過ぎないのではないか。
 それは試練や苦難ではない。神からのしごきであり、いじめであり、拷問であり、ハラスメントだ。意味のない嫌がらせだ。なぜなら、そこには成長の契機のかけらも見いだせないからだ。私は、しごきは大嫌いだ。

 こうした考えが、どうしても頭から離れない。自我もしくは末那識の、強烈な自己防御の絶叫かも知れないが。
 私には、自我の破壊される「回心」など先途程遠いどころか、もはやあり得ないかもしれない。

 

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あの世からのデバイス

 自分が嫌いだから「自分を勘定に入れず」行動する、というのはどうだろうか。
 自己犠牲というのは、自分を嫌い憎むから、自分を捨て、自分を殺すのだろうか。
 少なくとも、私にはそういう傾向がある。というか、ほとんどそうだ。
 自分なんぞなくていい、と何度思ったことか。自分などというものがあるから、余計な執着や、苦しみが生まれる。
 なんで人間は、そんなものを持ち合わせて生まれさせられてきてしまったのか。
 誰が生んだのか。誰がそんな設定をしたのか。ずっとそう思い続けている。
 この世の生身の人間を、あの世の操り人形に、あの世のマテリアル的実現手段としてのデバイスにしたのは誰だ。
 そいつは、サディストで、同時にマゾヒストだと思う。
 そう思う。

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ある研究会で考えたこと

ある研究会に出席して考えた。
自分を憎むが人を愛する、ということができるだろうか。

自分を愛して大切にしない人間が、人のことを思いやれるはずがない。愛を知らぬのだから。
しかしそれなら、「アラユルコトヲジブンヲカンジヤウニイレズニ」というのはどうなる。
自分を愛することと、利己主義とは違う。
あらゆることを自分を勘定に入れない、そういう自分を愛することか。
「今日も生きた、お前はよくやった」と、毎晩、唱える。

「自分を誉めてやりたい」というのは、傲慢ではないのだ。

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