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トヨタF1撤退

●トヨタF1撤退
 前日の記事で「日本が文化・経済的に成熟」とか書いたら、この体たらくだ。所詮は付け焼刃だったのだろう。
 かつてのトヨタは、「8割主義」で車を作っていたと覚えている。外国車の8割レベル、8割の人が満足するクルマ。といえば、いかにも俗物的2流に聞こえるが、よく考えてほしい。大学の試験で、合格ラインは60点である。80点といえば、「優」である。どんな科目にも80点が取れたら、その人は「全優」である。それがいかに困難なことか。トヨタはそれを目指し、かなりコンスタントな程度まで実現していたのであるから、実はやはり世界一だったのである。60年代や70年代のクラウンには、それが確かにあった。コロナにも、パプリカにもだ。
 それが妙な欲を出した。王になりたくなった。貴族になりたくなったのだ。
 万人に好まれる、世界一の優等生をやっていればよかったのに。
 そんなこと、望んでもできないのだから。
 そしてそれは、極めて日本的な文化成熟のひとつの形としてあり得た筈だ。

 まあこれで、日本のF1ファン人口は激減し、フジテレビも真っ青になることだろう。

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文化の日のテレビ

○文化の日のテレビ
 今日は文化の日で、正倉院展のことも含め、ずいぶん面白いテレビをやっていた。毎日こんな具合ならいいのだが。
 夜、唐招提寺のドラマをちらりと観る。中村獅童だの山本耕史だの、まるで「新選組!」だ。CGはこうした古代ドラマにはもう必須になった。時代考証も本当に精確、精緻になってきたのには感心するし安心できる。このあたりが韓流だと、もう、「ど」がつくほど滅茶苦茶なので。(ただし、顔のメイクだけは別だ。当時のまま復元すると、今の感覚では「お化け」になってしまうので。)
 またニュースでは、ボジョレ・ヌーボーの輸入が例年よりも少ないと言っていた。きっと多くは、中国バブル市民向けになっているのだろう。フランスも商売だから。
 しかし、それでもいいではないか。ボジョレ・ヌーボーがどういう酒であるか、日本人が知ってきたということだ。今日のテレビ番組も考え合せ、やっと戦後成金国家から脱して、文化と経済の成熟を示してきたということだ。

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自民党論戦

●自民党論戦
 谷垣総裁は正攻法過ぎる。あれでは宇宙人に通じない。それどころか、自民党内部にも響かないだろう。
 しかし面白いのは、見る影もない、風前の灯の自民党が、いまや少数派の、それも「左派」として、かつての「コーぺレーション」つまり戦後日本を支えた「産業協同組合」の原点から立ち上がろうとしているように見えることだ。
 それに比して、全体主義的、あるいは国家資本主義的統制策に親和感を抱く若手エリート官僚上がりの議員は、むしろ民主党に多いのではないか。
 「右派」と「左派」の入れ替わりだ。「国家」資本主義対「国民」資本主義だ。

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東京モーターショー開幕

●東京モーターショー開幕
 東京モーターショー開幕という報道を見た。前回訪れたときよりずっと規模縮小で(あのときが最後のクルマ文化の輝きだったのだろう)、今回はエコや電気自動車が呼び物のようだ。
 小さい電気自動車ばかりが画面に現われる。ホンダのインタラクティブ・カー(端末を持った歩行者と運転者との間でコミュニケーションが取れる)などは、大昔の「ホンダN360」そのままの姿。
 これらの車を見ていてまず思ったのは、「小型の電気自動車、結構。だがもし、大型トラックと衝突したら、いったいどうなる」という危惧だった。そうした怪物と混在して走行するというインフラ自体の改変までが視野に入っていないかぎり、私はとうてい怖くて乗れないし、ましてや家族を乗せられない。

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Let It Beの話、続く

●Let It Beの話、続く。←司馬遼太郎風。
 Let It Beデジタル・リマスター版、買ってしまいました。意志の弱いこと。しかしこれは、あくまで文献学的、学者的興味。
 それでどうだったかといえば、ぜんぜん変らない。音がクリヤーになっただの、パートが明瞭になっただの、ちっとも感じない。耳が悪くなったのか。
 いや、心と頭の中に徹底的に聴き込んで叩き込まれているから、ほとんど何も聴き逃していないのだ。当時の「ステレオ」で際限なくリピートして、寝ても起きても流していたから、夢に出るほどになった。シンコー・ミュージックの楽譜を徹底的に諳んじて、それにビリー・プレストンのパートや、楽譜と違うポールの弾き方もコピーした。ベースの部分も取り入れた。
 中学2年、3年、高校1年の頃は、ほとんどそれで終始したのではなかったか。
 やはり、最初の印象というものが強烈だ。もちろん、いま初めて聴いて衝撃、という若い人は、それはそれで幸福だ。ずっといい音で聴けるのだから。
「パスト・マスターズ」のジョージ・マーティン・バージョンも注文しようかと思ったが、これなら同じことかもしれない。

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Let It Be承前

○Let It Be承前
 Let It Beのバージョンについて、しばらく書く。←司馬遼太郎風。
 ビートルズだけでも、世に膾炙しているのは、少なくとも5つある。1つは、言わずと知れたシングル版。こちらは確か(今調べるのは面倒なので)、ジョージ・マーティン・ミキシング版。最後の繰り返しが2回。そして、ビリー・プレストンのハモンドオルガンがはっきり聞こえる。ジョージ・ハリスンのソロも、このテイクのものが一番いいと思う。
 2つ目は、LP版。これがいわくつきのフィル・スペクターの「音の壁」バージョンだ。最後の繰り返しが3回。ビリー・プレストンのオルガンにさらにいっぱい被さっている。どうもジョージのソロは2つで、背後に小さく、シングルバージョンのテイクが流れているようだ。もちろん、ジョージ・マーティン版に比して重ったるい。LPで聴いたとき、「あれっ、これって、違うじゃない」と思った。
 3つ目は、映画版。なにが違うといってよく分からないが、とにかく違う。ちょっと端折っているというか。ポールのピアノも多分レコードとは別だろう。
 4つ目は、「これは便利だ! アルファベット順」というとんでもない3枚組CD、そして海賊版でよく知られる、「1、2、3、4バージョン」というもの。冒頭にポールが「ア、ワン、トゥー、スリー、フォウ」と掛け声をかけて始まる。前半までは何とかまともに行くのだが、途中でポールが歌詞を間違えて、そのあたりからはもう練習テイクと割り切っているのが分かる。そして最後にピアノもややぞんざいに「ダダダダ、レティッビー、レティッビー」となるが、これが案外荒削りでいいのだ。私は自分でピアノを弾くときには、わざとこれをやったりすることもあった。ちなみに、このCDに収められている「サムシング」もまた、最後に延々とジャムセッションの続くバージョン。
 そして5つ目が、naked版。ポールは元来こうしたかった、というものだが、保守的な私のようなファンには、もう物足りない。ここに使われているジョージのソロ・テイクはあまりいいとは思えないし(ケルト・フォークロア的テイストが少ない)、ビリー・プレストンのオルガンもはっきりしない。やはり、70年の衝撃が、いまなお鮮烈だからだろう。むしろこのバージョンなら、ウィングス解散後の全世界ツアー(これもCD版とビデオ版では違うのではないか)の、大幅に変えたものの方が、ポエティックでパセティックで、私はずっと好きだ。
 まあざっと、こんなところ。
 後は、アイク・アンド・ティナ・ターナーのカヴァー版も、なかなかよいが、アレサ・フランクリンのにはかなわない。
 そうそう、それから蛇足だが、ビリー・プレストンは、ポールの名曲「ブラックバード」を、実にゴキゲンなアレンジでカヴァーしている。

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ビートルズ天邪鬼

●ビートルズ天邪鬼
 台風一過。昼までは風がなお強かった。
 遅ればせながら今度のビートルズのCDだが、どれだけお金儲けすればいいんだよ、という感じも、なきにしもあらず。マアしかし、「最初に聴く」体験、衝撃というものは、世代が変わっても、それぞれにあるのだろうから。とはいえ、私以上の世代の人には、「なんでそんなにしてまで聴き直しますかネ」と言いたい。アタマの中に入っているでしょう。だれかの金儲けに、唯々諾々奉仕してるんじゃありませんか。
 とはいえ、私も、Let It Beのリマスター版は聴いてもいいかな、とも思う。あのフィル・スペクター・サウンドが、どう料理しなおされているか。実は私は、naked版のバージョンは、あまり好きではない。とくにジョージのソロの部分。やはり最初に聴いたシングル版の衝撃が、今なお新ただからだ。一枚聴きつぶして、二枚目を買ったくらいだ。しかしこんな経験は、私以上の世代の人ならば、いまさらあたりまえのことだろう。
 ところで、Let It Beの、最も素晴らしいバージョンは、アレサ・フランクリンのです。
 と、私は思う。

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大漢和丸写し

○大漢和丸写し
 今日は、5時限目の授業は30分早く切り上げて、学生を帰した。だからといって腹を立てる者もいまい。演習だし。しかも明日は休講だそうだ。補講はどうするか……小生の関知するところにあらず。
 あるサイトで、大学で「大漢和辞典丸写し」という演習をやっている、という記事を読んだ。じつにすばらしい。手で書くということは、その信号が脳に行き、ニューロンが活性化されて繋がり、また身体にフィードバックされるということだ。まさに「体で覚える」トレーニングなのだ。昔の東洋史では、自分が使う漢籍史料は、みな図書館へ行って丸写ししてきたものだ。それをする中で、新たな発想を得たものだ。今みたいにコピー・ペーストで、脳の中に何が残るものか。「そういう作業をパソコンに任せ、脳は自由な発想ができる」などとは大嘘だ。だって、それは「作業」ではない。「クリエイション」なのだもの。牛歩のごとき繰り返しから、クォンタム・リープが生まれる。
 大学4年の夏、図書館読書室で大漢和辞典と首っ引きで史料を読んでいた。その話をすると、心理学科の親友が、「また大漢和と格闘だね」と笑っていた。そう、楽しい格闘だった。ひたすら繰り返し。知らない間に、脳の中に発想が芽生えている。リ・クリエイション──レクリエーション。

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国難襲来

●国難襲来
 台風襲来。しかし私は、たぶん日本から逸れると踏んでいる。当たるか当たらぬか。
 それどころか、いまは国難襲来だ。今日のニュースを聞いていても、政治、社会と、日本はすっかり転倒しきっている気がする。麻生政権崩壊以来、なんの安定も取り戻せていない。そう、あれは政権交代ではなく、「崩壊」だったと思う。20年前、東ドイツ共産政権崩壊の頃、グレンツ書記長が議会でのあれよあれよという展開に、思わず苦笑いしていた姿を思い出す。自民党政権というのは、要するに共産党一党独裁と同じことだったのだから。ゴルバチョフが日本をモデルとしたのもむべなるかなだ。これが回復するまでには、まだ長い時間がかかるだろう。いや、元の姿には、もう戻らないかもしれない。新総裁がいくらなにを打ち出そうとも、知った顔があっというまにいなくなってしまったではないか。一瞬にして、過去の政治勢力だ。
 農協、漁協、土建業……。じつはこれらの協同組合、コーペレイションを基盤としていた自民党が支えたリベラル国民社会主義国家日本は、ついに終焉した。
 鳩山は弱肉強食ではない友愛だと言っているようだが、今後の日本の相互扶助体制は、どう再構築されていくだろうか。われわれはマスコミの振りまく悲観情報にいたずらに踊らされることなく、日々堅実に過ごしていくことが、最も賢明だろう。

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オリンピック落選

●オリンピック落選
 だれも福岡のことを言わないが、もともと福岡が立候補するつもりで準備も万端整えていたのに、都知事がいきなり横車を押して、強引に候補地の地位を奪ったと、私は記憶している。「東京の若者に元気を与えたい」、とか。ならば福岡の若者はどうするのだ。日本全国の若者はどうするのだ。福岡は裏日本、表日本の交わる場所で、地理的にも東アジアのハブになれるのだから、日本全国の活性化を考えれば、その方がずっとよかったのではないか。たとえ落選したとしてもだ。
 福岡の人は、さぞや面白からぬ思いだろう。
 それに、「自分さえNo.1になれば、それでいい」みたいな、あるいは国旗を体に巻いて走り回ったりとか、そういう敗者への心遣いのない、この頃のオリンピックは、私は嫌いだ。

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