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研究会出席

○研究会出席
 今日の夜は、都心で、とある研究会に出席。二次会のビールと中華も含めて、私には月一度のオアシスの時間。二次会の仕切り役は私なので、好きな料理ばかり注文する。北京仕込みだし、文句も出ないし、まあいいだろう。
 帰りの電車の中で、つり革に摑まっていると、後ろではラーメンの佐野実の悪口(中吊り広告に登場)、前の座席では宮崎駿の話。
 なんだか気楽なものだ。

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ボルボ850インプレッション

○ボルボ850インプレッション
 代車で来ている、ボルボ850GLEのインプレッションを書いておく。
 まず、車高が240に比して低いことに気づく。屋根が眺め渡せるので。しかし別に室内が頭がつかえるとかそんなことはなく、十分に広い。
 運転すると、パワーステアリングが軽い、軽い。片手で楽に回せてしまう。もちろん、しっかり保持することはできるが。ウッドハンドルだし、高級感があって快適。乗り心地も悪くないし、ロールもしないのは、デルタリンク方式の賜物だろう。さすがレースにまで出た車だ。
 加速はもちろんよく効き、かつスムーズ。ついアクセルを踏み込んですっ飛ばしてしまいそう。エンジン音も低く、いかにも噴射しているという感じだ。ただし、あっ、スピードが出すぎた、いかん、コントロールせねば、と思って速度計を見ると、案外60キロに届いていなかったりする。つまり、加速に要する時間も短いし、車高の低さとも相俟って、スピード感覚(疾走感覚)が240とはだいぶん違うということだろう。
 後は、室内はごてごてしているし、オーディオや空調も何かかにか含めて計器は多いし、透過式でピカピカしているし、マア現代車に繋がるわけで、そんなものか、とも思う。
 最後に、夜帰宅して駐車場に入れているときに思ったのは、240が「戦車」だとすると、850は空港に降り立って駐機場にタキシングして行く「ジャンボジェット機」だな、ということだった。
 そのくらいの違いが、ある。
 ただ書いているいま気づいたが、悪く共通点を挙げれば、要はどちらも鈍重ということか。もちろん、なにものも安全には換えがたい。

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ボルボ240、オート・ボルタへ

●ボルボ240、オート・ボルタへ
 ボルボ240オンマニ号を、オート・ボルタへ持っていく。
 今回のメインは、オイル交換。ボッシュのオイルエレメント(フィルター)は調達済み。あとはいつもどおり、Wako’s諸ケミカル投入をお願いする。
 それから、運転席側サンバイザーのクリップが割れてしまっているので、これを接着剤でつけようかと思っていたが、部品取り車から調達することにした。
 あとは懸案の、エンジンストール問題。そして、集中ドアロックの不調だ。運転席のノブのみが降りて、他は下がらない。手で何遍か上げ下ろしした後、ようやく、不承不承といった感じで、「バタッ」と下がる。
 ところがここしばらく、エンストは起きていない。そしてオート・ボルタに行くと、面憎いことにオンマニ号はよそ行きの顔をして、ドアロックも普通に動作するのだ。社長がハンドルを握り、しばらく試運転したが、エンジンは快調、オートマの切り替わりも通常の範囲内だということ。
 ともかく、ガレージに入れて調べないと分からないが、ドアロック機構の修理は内張りを剥がさねばならず、無用のお金がかかるのは避けたいとは、社長も考えている。これまでの症例分析からして、どうも電気の流れが臭いことは確かで、あるいはバッテリーあたりかもしれない。「ともかく、テスターで測ってみましょう」ということで、ボンネットを開ける。私はカーゴルームからオイルエレメントを出したりしていたが、前に回ると、社長が「早速、ひとつ発見しましたよ」と言う。
 何かと思ったら、バッテリー端子に取り付けてあった〈バッテリーキルスイッチ〉の端子が、ぽっきり折れている(写真参照、矢印が折れた部分)。
broken.jpg「ちょっと引っ張ったら、ポロリと取れました」と社長。鋳物の質が悪いのだ。不良品だ。この品物は車検整備に合わせて取り付けたもので、、どこから購入したかは2008年4月22日の記録に留めてあるが、既往はあまり問いたくない。部品運が悪かったと思いたい。大難を小難で切り抜けられたのかもしれないし。それに結局、一度も使ったことはなかった。
 いずれにせよ、もはやどうしようもないので、バッテリーキルスイッチそのものを外し、元の端子で直結する。その後テスターで測ると、バッテリーはピンピンしている。

 さてこれで、いささか曙光が射してきたような気がした。すなわち:
●バッテリーキルスイッチ端子は昨日今日でいきなり折れたのではなく、だいぶん前から少しずつ亀裂が入り、しだいにそれが振動で広がり弱りつつあった。そのために、電流が途切れることがきっとしばしば起こり、ライトをつけるなどの大電流を要求されるときなどには特に負荷が大きくかかって、それで瞬間的に断電してエンジンストールにつながったのではないか。
●集中ドアロック機構の不具合も、あるいは流れるべき電力が弱く、そのために十分な力が出なかったのではないか。

 もちろん、20年も前の欧州車だし、電気系統はどこが弱っているか分からないから確言はできない。それに、バッテリーキルスイッチを装着する以前の、ごく初期の一度目のエンストの原因は、これで説明することはできない。
 こうしたこともあるし、「ともかく明日、いずれにせよオイル交換の際にもういちど様子を見て、それでガレージに入れるかどうか、連絡します」と社長も言うので、それに従うことにする。
 後はコロナホイールが少し痛みかけてきているので、どうにか別のものにしたい。うまく出物を社長に見つけてもらいたいものだ。すると、「最近、競争相手がいなくなっちゃって」と社長が言う。これは喜んで言っているのではなく、この不況、そもそも自動車自体の売れ行きが落ちている中で、旧ボルボを扱う中古ディーラーが軒並み姿を消しているということで、つまりパイそのものが縮小してはとうてい一人勝ちなどと喜ぶことはできないが、もしかしたらそうした関係で、部品そのものは出回ってくるかもしれない、そうしたニュアンスのことばと受け取った。
 さてそれで、今回の代車は、ボルボ850GLE。オンマニ号よりはだいぶんデラックスだし、エレクトロニクスも充実している。だがどうも、オンマニ号のような分かりやすい反応というのはあまり無いようではある。

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お知らせ

○お知らせ
 島唄ユニット、シーサーズのブログ「
島唄な日々」と、やはりシーサーズの一員であるyayoさんのブログ「yayoの気まぐれ徒然日記。」に、奄美と沖縄についての催しとコンサートの広報が載っています。どうか御覧になってください。
 ……と書いてもポチッとしない人のために、転載する。

Link A O 奄美と沖縄をつなぐ

奄美と沖縄をつなぐ
 11/14にシンポジウムとコンサートを開きます。奄美と沖縄を含めて「琉球弧」として歴史や文化を見るという、これまでにない試みなので、ぜひ、おいでください。以下「企画趣意書」より引用します。

 今年2009年は、琉球弧の歴史が大転換してから四百年目の節目に当ります。百年単位でみると、1909年ではまだ1609年のことを問える段階には無かったことを考えると、今年は歴史上、画期をなすタイミングであることが分かります。そしてそのことを踏まえるように、奄美や沖縄では、四百年を問うイベントが次々と行われていますが、そのどの場からも、四百年の歴史に向き合うことで、新しい琉球弧像をつくろうとする息吹きが伝わってきます。

 わたしたちは、わたしたちもまた奄美に深く関わる者として、四百年間の歴史を踏まえた新しい琉球弧像をつくるテーマを受け止めると、「奄美と沖縄をつなぐ」ことが切実な課題であると感じています。

 というのも、奄美と沖縄は、同じあるいは近しい自然と文化を持つにもかかわらず、驚くほどお互いへの関心が低く交流も深くありません。四百年前に端を発する奄美と沖縄の境界は外的なものであるのに、いまやそれを自分たちのものにしてしまっていないでしょうか。しかしそれは奄美にとっても沖縄にとっても不幸であるばかりでなく、未来への展望を妨げているように思えます。奄美と沖縄のつながりを回復することは、四百年前の歴史を克服する道筋のひとつであり、それは新しい琉球弧像を築くことに寄与するに違いないと、わたしたちは考えています。

 そこでわたしたちは、今後、自然や文化を根拠にした「奄美と沖縄をつなぐ」活動を展開していきたいと考えています。

 その活動の第一弾として、シンポジウムとコンサートを企画しています。シンポジウムでは、奄美と沖縄のつながりに関心を持つ方々によるディスカッションを計画しています。
「奄美と沖縄をつなぐ」実行委員会(Link A O)持田明美・喜山荘一 

●シンポジウム 二重の疎外の克服のために~ ver.1

 喜山荘一 与論島生まれのユンヌンチュ。著書に『奄美自立論』(南方新社)、
      『ビートルズ 二重の主旋律』(メタ・ブレーン)ほか。
 上里隆史 1976年、長野県生れのウチナンチュ。専門は歴史で、特に古琉球。
      著書『誰も見たことのない琉球』『目からウロコの琉球・沖縄史』
     (ともにボーダーインク)
 圓山和昭 1978年奄美大島生れ。2006年東京亀戸に居酒屋「奄美の家」を開店。
      奄美を元気にしたいという想いのもと、
      ブログ「奄美の家」を情報発信基地にするべく日夜奮闘中。
 藤木勇人 1961年沖縄県コザ市(現沖縄市)生まれ。
      85年に沖縄の人気お笑い集団「笑築過激団」に入団、
      翌年には沖縄ポップの先駆け「りんけんバンド」にも参加し
      芸能活動を続ける。93年に独立し一人芝居公演「うちな~妄想見聞録Vol.1」を
      上演。芝居とおしゃべり(ゆんたく)で笑いを交えた舞台公演を全国各地で
      行っている。

● 島唄コンサート~琉球の島々をシマ唄でつなぐ

ウタは島伝いに海を渡り、根付きます。奄美大島・徳之島・沖永良部・与論・沖縄本島・宮古諸島・八重山諸島まで、琉球弧のなかので同名異曲や異名同曲、ウタの変化を見、つながりを発見する試みです。

   奄美大島…徳原大和

   徳之島……内山五織/HiRo

   与論島……中山青海(あおい)

   沖永良部島…… 持田明美、マタハリダンサーズ 

   沖縄島…… 熊倉直樹&知念京美

   宮古島……金城勝宏

   八重山…… 八重山芸能集団「結~ゆい~」/新城 亘

 日時:2009年11月14日(土) 午後4時から
 場所:新宿区牛込箪笥区民ホール 
    都営地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅よりすぐ 
    営団地下鉄東西線「神楽坂」駅より徒歩10分
 入場料:前売3500円 当日4000円
         
 チケットのお求めは080-5490-3709(喜山)

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Let It Beの話、続く

●Let It Beの話、続く。←司馬遼太郎風。
 Let It Beデジタル・リマスター版、買ってしまいました。意志の弱いこと。しかしこれは、あくまで文献学的、学者的興味。
 それでどうだったかといえば、ぜんぜん変らない。音がクリヤーになっただの、パートが明瞭になっただの、ちっとも感じない。耳が悪くなったのか。
 いや、心と頭の中に徹底的に聴き込んで叩き込まれているから、ほとんど何も聴き逃していないのだ。当時の「ステレオ」で際限なくリピートして、寝ても起きても流していたから、夢に出るほどになった。シンコー・ミュージックの楽譜を徹底的に諳んじて、それにビリー・プレストンのパートや、楽譜と違うポールの弾き方もコピーした。ベースの部分も取り入れた。
 中学2年、3年、高校1年の頃は、ほとんどそれで終始したのではなかったか。
 やはり、最初の印象というものが強烈だ。もちろん、いま初めて聴いて衝撃、という若い人は、それはそれで幸福だ。ずっといい音で聴けるのだから。
「パスト・マスターズ」のジョージ・マーティン・バージョンも注文しようかと思ったが、これなら同じことかもしれない。

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Let It Be承前

○Let It Be承前
 Let It Beのバージョンについて、しばらく書く。←司馬遼太郎風。
 ビートルズだけでも、世に膾炙しているのは、少なくとも5つある。1つは、言わずと知れたシングル版。こちらは確か(今調べるのは面倒なので)、ジョージ・マーティン・ミキシング版。最後の繰り返しが2回。そして、ビリー・プレストンのハモンドオルガンがはっきり聞こえる。ジョージ・ハリスンのソロも、このテイクのものが一番いいと思う。
 2つ目は、LP版。これがいわくつきのフィル・スペクターの「音の壁」バージョンだ。最後の繰り返しが3回。ビリー・プレストンのオルガンにさらにいっぱい被さっている。どうもジョージのソロは2つで、背後に小さく、シングルバージョンのテイクが流れているようだ。もちろん、ジョージ・マーティン版に比して重ったるい。LPで聴いたとき、「あれっ、これって、違うじゃない」と思った。
 3つ目は、映画版。なにが違うといってよく分からないが、とにかく違う。ちょっと端折っているというか。ポールのピアノも多分レコードとは別だろう。
 4つ目は、「これは便利だ! アルファベット順」というとんでもない3枚組CD、そして海賊版でよく知られる、「1、2、3、4バージョン」というもの。冒頭にポールが「ア、ワン、トゥー、スリー、フォウ」と掛け声をかけて始まる。前半までは何とかまともに行くのだが、途中でポールが歌詞を間違えて、そのあたりからはもう練習テイクと割り切っているのが分かる。そして最後にピアノもややぞんざいに「ダダダダ、レティッビー、レティッビー」となるが、これが案外荒削りでいいのだ。私は自分でピアノを弾くときには、わざとこれをやったりすることもあった。ちなみに、このCDに収められている「サムシング」もまた、最後に延々とジャムセッションの続くバージョン。
 そして5つ目が、naked版。ポールは元来こうしたかった、というものだが、保守的な私のようなファンには、もう物足りない。ここに使われているジョージのソロ・テイクはあまりいいとは思えないし(ケルト・フォークロア的テイストが少ない)、ビリー・プレストンのオルガンもはっきりしない。やはり、70年の衝撃が、いまなお鮮烈だからだろう。むしろこのバージョンなら、ウィングス解散後の全世界ツアー(これもCD版とビデオ版では違うのではないか)の、大幅に変えたものの方が、ポエティックでパセティックで、私はずっと好きだ。
 まあざっと、こんなところ。
 後は、アイク・アンド・ティナ・ターナーのカヴァー版も、なかなかよいが、アレサ・フランクリンのにはかなわない。
 そうそう、それから蛇足だが、ビリー・プレストンは、ポールの名曲「ブラックバード」を、実にゴキゲンなアレンジでカヴァーしている。

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ビートルズ天邪鬼

●ビートルズ天邪鬼
 台風一過。昼までは風がなお強かった。
 遅ればせながら今度のビートルズのCDだが、どれだけお金儲けすればいいんだよ、という感じも、なきにしもあらず。マアしかし、「最初に聴く」体験、衝撃というものは、世代が変わっても、それぞれにあるのだろうから。とはいえ、私以上の世代の人には、「なんでそんなにしてまで聴き直しますかネ」と言いたい。アタマの中に入っているでしょう。だれかの金儲けに、唯々諾々奉仕してるんじゃありませんか。
 とはいえ、私も、Let It Beのリマスター版は聴いてもいいかな、とも思う。あのフィル・スペクター・サウンドが、どう料理しなおされているか。実は私は、naked版のバージョンは、あまり好きではない。とくにジョージのソロの部分。やはり最初に聴いたシングル版の衝撃が、今なお新ただからだ。一枚聴きつぶして、二枚目を買ったくらいだ。しかしこんな経験は、私以上の世代の人ならば、いまさらあたりまえのことだろう。
 ところで、Let It Beの、最も素晴らしいバージョンは、アレサ・フランクリンのです。
 と、私は思う。

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大漢和丸写し

○大漢和丸写し
 今日は、5時限目の授業は30分早く切り上げて、学生を帰した。だからといって腹を立てる者もいまい。演習だし。しかも明日は休講だそうだ。補講はどうするか……小生の関知するところにあらず。
 あるサイトで、大学で「大漢和辞典丸写し」という演習をやっている、という記事を読んだ。じつにすばらしい。手で書くということは、その信号が脳に行き、ニューロンが活性化されて繋がり、また身体にフィードバックされるということだ。まさに「体で覚える」トレーニングなのだ。昔の東洋史では、自分が使う漢籍史料は、みな図書館へ行って丸写ししてきたものだ。それをする中で、新たな発想を得たものだ。今みたいにコピー・ペーストで、脳の中に何が残るものか。「そういう作業をパソコンに任せ、脳は自由な発想ができる」などとは大嘘だ。だって、それは「作業」ではない。「クリエイション」なのだもの。牛歩のごとき繰り返しから、クォンタム・リープが生まれる。
 大学4年の夏、図書館読書室で大漢和辞典と首っ引きで史料を読んでいた。その話をすると、心理学科の親友が、「また大漢和と格闘だね」と笑っていた。そう、楽しい格闘だった。ひたすら繰り返し。知らない間に、脳の中に発想が芽生えている。リ・クリエイション──レクリエーション。

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国難襲来

●国難襲来
 台風襲来。しかし私は、たぶん日本から逸れると踏んでいる。当たるか当たらぬか。
 それどころか、いまは国難襲来だ。今日のニュースを聞いていても、政治、社会と、日本はすっかり転倒しきっている気がする。麻生政権崩壊以来、なんの安定も取り戻せていない。そう、あれは政権交代ではなく、「崩壊」だったと思う。20年前、東ドイツ共産政権崩壊の頃、グレンツ書記長が議会でのあれよあれよという展開に、思わず苦笑いしていた姿を思い出す。自民党政権というのは、要するに共産党一党独裁と同じことだったのだから。ゴルバチョフが日本をモデルとしたのもむべなるかなだ。これが回復するまでには、まだ長い時間がかかるだろう。いや、元の姿には、もう戻らないかもしれない。新総裁がいくらなにを打ち出そうとも、知った顔があっというまにいなくなってしまったではないか。一瞬にして、過去の政治勢力だ。
 農協、漁協、土建業……。じつはこれらの協同組合、コーペレイションを基盤としていた自民党が支えたリベラル国民社会主義国家日本は、ついに終焉した。
 鳩山は弱肉強食ではない友愛だと言っているようだが、今後の日本の相互扶助体制は、どう再構築されていくだろうか。われわれはマスコミの振りまく悲観情報にいたずらに踊らされることなく、日々堅実に過ごしていくことが、最も賢明だろう。

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オリンピック落選

●オリンピック落選
 だれも福岡のことを言わないが、もともと福岡が立候補するつもりで準備も万端整えていたのに、都知事がいきなり横車を押して、強引に候補地の地位を奪ったと、私は記憶している。「東京の若者に元気を与えたい」、とか。ならば福岡の若者はどうするのだ。日本全国の若者はどうするのだ。福岡は裏日本、表日本の交わる場所で、地理的にも東アジアのハブになれるのだから、日本全国の活性化を考えれば、その方がずっとよかったのではないか。たとえ落選したとしてもだ。
 福岡の人は、さぞや面白からぬ思いだろう。
 それに、「自分さえNo.1になれば、それでいい」みたいな、あるいは国旗を体に巻いて走り回ったりとか、そういう敗者への心遣いのない、この頃のオリンピックは、私は嫌いだ。

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