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ヒトラー最後の12日間

●ヒトラー最後の12日間
 夕方からひどく眠くなったと思ったら、案の定、気圧低下と見えて、大嵐が来た。4月にならないうちに、花が散ってしまうかもしれない。
 夜はケーブルテレビで『ヒトラー最後の12日間』を観る。重い映画だ。あのヒトラーは、ヒトラーというよりも、ブルーノ・ガンツそのものだ。ブルーノ・ガンツがブルーノ・ガンツをやっている、といったほうがいいかもしれない。
映画中の地下壕とベルリン市内を観ていて、「ネクロポリス」ということばを思い出した。そう意識した演出でもあったろう。

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教育テレビ番組予告

●教育テレビ番組予告
 夕方、教育テレビの番組予告を観ていたら、4月からの海外新ドラマ予告として、マジックナポレオンズを進行役にして『マーニーと魔☆法の書』および『ドクター・フ☆ー』という2本を紹介していた。前者はイギリスの古城を舞台とした現代魔☆法使い物語、後者はタイムマシーンを操る宇宙人と人間の少女が活躍する物語だ。
 観ながら、どう考えてもおかしいではないかと思った。キリスト教国で、なぜこんなに魔☆術(w☆itchcr☆aft)のことばかり流行るのか。『指輪物語』しかり、『ハリー・ポッター』しかり、『ナルニア国』しかりだ。それで今度はテレビドラマだ。また『ドクター・フ☆ー』の予告編の中には、「数十億年未来に飛んだら、そこは宇宙ステーションで、あと10分で地球が消滅するそのスペクタクルを見物しに大勢の宇宙人が集っている」というシチュエーションが出てきていたが、これなどは2012年ア☆センション関連サイトでよく言われている「この壮大な地球ドラマを見るために宇宙生命体が別次元に集結している」状況の、丸写しといってもいい焼き直しではないか。
 可能性は二つ。一、まったくアイデアが尽きて、二匹目のドジョウを狙って古臭いファンタジーに頼り、他方ではニューエイジネタにまで手をつけた。二、隠されてきた情報が明るみに出されたときに受けるショックをあらかじめ和らげるために、こうして小出しにして馴化させようとしている。
 いずれにせよ、こういう番組は、青少年の情操にいいとは、とうてい思えないのだが。

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イラン開戦?

●イラン開戦?
 いくつかのブログやサイトからの情報だと、4月6日にアメリカ・イスラエルが連合してイランに開戦するという。出所はロシア情報による中国報道というものだから、「飛ばし」だろうし、これによって何かを牽制するなど、国際戦略・国際謀略がまつわっていることも間違いないだろう。
 私が思うのは、ネットの中に、「こんな閉塞した世界だから、いっそのこと戦争でも起こってスカッとなってくれ」というような気分が醸成され蔓延しているということだ。
 閉塞して活気を失った世界を一気に開いてフェーズを変え、再生のエネルギーを注入するのは「まつり」の役割だが、戦争こそ究極の「人身御供」まつりに他ならない。
 考えれば、ネットではしばしば「祭☆り」になったり、「炎☆上」したりするが、つまりそれはあるブログなりを閉塞感からくる不満を投影する対象として火あぶりの犠牲に選び、スカッとして次のエネルギーを得るということで、まさにそれは戦争に他ならない。
 戦争・カタストロフ待望の気分醸成はいやだ。

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石川県地震

●石川県M7.1、震度6
 今朝、東京でもみしみしと揺れた。現在でも、なお余震が続いているそうだ。
 昨夜、夕食の後、急に起きていられなくなり、「ちょっと横になる」と言ったまま、今日の昼前まで寝ていた。食事のときに飲んだキリンの新発売のエールが効いたのかと思っていたが、そうではなかったかもしれない。
 最近、スピリチュアルサイトでは、しばしば地球の波動上昇による天変地異などといった話題を上せている。「つながっているこころ」というサイトでは、天変地異のみならず、太陽フレア爆発とその結果による太陽風到達について触れている。その到達が、ちょうど今月24日、25日だというのだ。
 自分のダウンは、これらの影響を受けたのかもしれない、とも思った。また、それらの影響による地震の予兆でもあったのかもしれない。
 実は、3月20日朝、すさまじい高潮の夢を見た。私はさる超高層ホテルに泊まっていたのだが、その私の泊まっているホテルの部屋のところまで、つまり百数十メートルの高さのところまで、ざばあっと水が押し寄せて、窓の外に水の中が揺れるのすら見え、そのあおりで窓から少し水が漏れて滴った。この水はすぐに引いたのだが、その後は、目の下に土が溜まって、そこまで地面になっている。斜め上を見上げると、隣の建物(そんなものがあるというのがおかしいが)の軒のところにまで泥がついて、水がその高さまできたことを物語っている。
 目覚めてすぐに気づいたのだが、前日の夜、テレビで「アビス」という映画を観て、それには何百メートルの津波があわや世界を襲うというシーンがあったので、それが夢に出たのだろうと思った。しかしそれだけではなく、こうしたことすべてが何らかの予兆であったということもありうる。それに第一、ああした映画そのもの(企画も含め)が、隠された情報を小出しにして人間を操作する動きの一部なのかもしれないではないか。
 ただし、そうしたこととはまったく別として、人間の身体はミニ宇宙だから、天人相応で、互いに変化させ変化させられることは確かだろう。
 とはいえ、天候の予知も地震の予知もできない。それは、「現代の科学」と「現代の科学の範疇外にある<人間/世界把握の方法論>」のスキームが違いすぎるからだ。これの合一を、宮澤賢治も望んだのだったが。

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2012年

○2012年
 2012年のことを、さまざまに言う人がいる。最大公約数的には、それは何らかの大きな節目、移行点に当たり、そこでアセンションと呼ばれる次元転換が起こるが、その際にはカタストロフが地球と人類とを襲う。そしてその大破局後には、次元上昇して浄化されたミロクの世が始まるのだが、この破局を通過して次元上昇するためには、人間は相当意識して心身を改善・浄化しなければならないという。
 さてこれを眺めてみると、やはり末法思想と弁証法的止揚による救済という、1000年前、2000前にも繰り返されたパターンのビジョンが仄見える。しかも破局を切り抜けられるのは、いち早く気づき「悔い改め」「回心した」人々だけというのだから、そこには選民思想もある。そして「アセンションに対して意識的になれたと自らを認識できると考えているつもり」の人の中には、たとえごく一部ではあっても、そうしたカタストロフの現実化を待ち望み、「破滅した人たち」に対する優越感に浸りたい人たちもないわけではないだろう。
 さらに、「いいえ、私はそんなひどいことは思いません」と言う人たちのためには、こんな心理緩解的言い訳も用意されている。つまり、「どんな人生を選ぼうとも、それはその人の選んだことであり、すべては学びの道程であり、意味があり、究極は一なるものの経験として救われている」というのだ。これで、「アセンションからこぼれ落ちた」人からの怨みも受けず、また気も咎めずに済む。
 ところで、こうしたビジョンというものは、1000年前を見ても、2000年前を見ても、実現したためしがないように見える。かりに百歩譲って実際に末世を通過したと認めたとしても、それがいったい、どのような形で実現していたのかは、少なくとも神ならぬ身の我々には判らないというのが正直なところなのである。
 そこで、そのことに対しても、あらかじめ説明がなされてある。それは、「皆の願い、愛、総意、祈りによって、具体的で恐るべき破局の現実化が避けられたのだ。思いは現実化するのであるから、恐怖を持つことによってそれを現実化することの無いようにせよ」というものである。
 加えて、ごく最近では、カタストロフとアセンションを説く予言の中には、こんなことを言っているものすら出てきている。すなわち、「皆の思いと宇宙の助けによって、実際の次元上昇のショックは、ごく短時間、かつほとんど感じられない程度で済むかもしれない」というのである。
 これではもはや、自分の「言挙げ」が当たらなかった場合に備えて張った「予防線」であると言われても仕方ないのではないだろうか。
 こんなことをやっているから、「ニューエイジ」は信用を持たれず、底の浅い、すぐに論破されるようなものとしてしか認識されえないのだ。人を予め恐怖に陥れておいて、それで救ったような顔をする、殴ってさするマッチポンプとしか思われないのだ。恐怖の波動を撒き散らしているのは、当の自分の方ではないか。
 だから結局は、「毎日を、しっかり生きなさい。できれば「妙好人」として」という、ごくごく当たり前のところに落ち着くということだろう。
 辛口になったが、私には、スピリチュアリティを否定したり排除したりするつもりは、毛頭ない。

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ハリウッド映画『300』

●ハリウッド映画『300』
 ペルシア戦争のテルモピレーの戦いを描いたハリウッド映画『300(スリー・ハンドレッド)』が、いきなり興行成績第一位となったという記事を読んだ。フランク・ミラーというアメリカン・コミック作家原作のCG作品だそうだ。
 ここしばらく、ハリウッドは史劇を多く作っている。『トロイ』『アレクサンダー』『キング・アーサー』などは日本でも上映された。
 ここからわかるのは、いずれもそのテーマが東西の対決ということだ。しかもそのターゲットは、イランだ。トロヤは小アジア沿岸の都市国家、しかしギリシア=アメリカにとっては、最初の「アジア」つまり後のペルシアの暗喩だ。アレクサンダーはその戦術が米軍の模範ともされるくらいで、かれはペルシア帝国を滅亡させたのだから、これはストレートに判る。アーサー王はちょっと捻った作りだが、映画中のかれは、野蛮な東方人たるサクソン族(ゲルマンが東方出身だからこそ、ヒトラーはロシアやコーカサスやウクライナ──みなペルシャやスキタイの勢力圏──にアーリアンのレーベンスラウムを求めたのだ)からローマ=アメリカすなわち西欧世界を守るローマ辺境司令官として描写されているわけで、意図するところは同様だ。
 つまりこれらの映画は、ペルシャ=イランを強大な恐怖の対象として観客に投影させ(「イランのせいで……」)、きたるべき米軍のイラン戦争に心理的に備えさせるという、マインドコントロールの役割を担っているのではないか、と邪推することもできよう。「強いアメリカ」を語る作家トム・クランシーは、『レッド・ストーム・ライジング』の中で、ソビエトのドイツ開戦への心理的仕掛けとして、エイゼンシュテインの映画『アレクサンドル・ネフスキー』が使われるという設定にしていたが、ハリウッドとアメリカは、まさにそれを地で行っているということになる。
 じつは1950年代、やはりハリウッドが超大作史劇を作ったことがあって、『アレキサンダー大王』(リチャード・バートン)、『トロイのヘレン』(ロッサナ・ポデスタ)、それに『スパルタ総攻撃』などはすでに登場している。そしてこの頃は核の恐怖の冷戦時代で、「東」とは当然、ソビエト・中共だった。
(さらに穿って考えれば、ペルシャ軍は矢の雨でスパルタ軍を滅ぼすのだが、これはかつてならソビエトの弾道弾、現在ならイランのミサイルということだ。)
『300』の予告編をサイトで観ると、ペルシア勢はきわめて異教的に、しかも仮面まで被って描かれ、その仮面はともすれば中国的にすら見える。だとすれば、ますます根は深くなる。
 こうしたことは、イランは当然気がついているわけで、
http://www.afpbb.com/article/1413433
に、そのあたりの事情が出ている。
 われわれ、つまりシルクロードの東端にある「日出ずる国」の人間(『ラスト・サムライ』などに描かれるわれわれは何なのか? カルタゴ? 楼蘭? )も、いっそう注視していく必要があるだろう。

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神社の閂盗難

●神社の閂盗難
 そこまで金に困っているのか。かりに困っているからといって、神社の物に手をかけるものか。賽銭泥棒とは話が違う。世間に対する反発からの行動ということでもない。教育も文化も伝統もゼロになった。
 大日本印刷の派遣社員による情報流出事件も同様だが、もはや人を信じることはできなくなった。人を信じるという心の働きを否定する人ばかりになった。つまり、人を信じるという心の働きを作る回路を、もはや本来的に自分の中に持ち得なくなった人ばかりになったということだ。その前提で、世の中を動かさなければならなくなったということだ。人を信じるという形の生きる営みをする人を、むしろ稀な存在と見なして行動しなければならなくなったということだ。

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イエスの墓

○イエスの墓
 アメリカのディスカバリー・チャンネルだと、日本時間の昨日か今日あたりに、ジェームス・キャメロン製作の、イエスの墓発見のドキュメント番組をやっているはずなのだが、日本では残念ながら放映されない。
 事の真偽はさておき、この墓群は80年代前半にはすでに発見されているそうで、調査もそれなりになされていたとは思うのに、それがなぜ今、そしてどういう意図で発表されるのか? という疑問は残る。すべてがあらわにされていく動きの一環なのだろうか。

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Le bon roi Dagobert 追記

○Le bon roi Dagobert 追記
 気になって調べてみると、この唄は大革命前夜に作られた、ルイ16世を風刺する里謡だったらしい。
 「草莽」的直感の正しかったことがはからずも証明された形だが、それなら最初からこれくらい調べて書けばよかった。

http://www.histoire-en-ligne.com/article.php3?id_article=293
http://fr.wikipedia.org/wiki/Le_bon_roi_Dagobert

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インターナショナル

○インターナショナル
 ネットのとあるサイトで、世界各国の「インターナショナル」を聴く。
 天安門事件を体験した私にとって、インターナショナルは、1989年北京の春の中国民主化運動の象徴としての存在だ。ところがその当の中国といえば、いまや民主化など遥かに通り越したところへ往ってしまった。なのでここでは繰り言など措いておいて、曲そのものについて述べることにしよう。
 同じ曲といえども、それぞれの国によってずいぶん歌い方にも演奏の仕方にも相違があるものだ。フランスはさすがに正統派、編曲が一番好きなのは中国。ベトナムは今の言葉でいうなら「ゆるい」。イギリスは案外つまらない。アイリッシュのフォーク調のものは切々としていいのはイギリスに抑圧されている思いがあるからか。ロシアのはあえて聞きません。
 面白いのは、最後の「インターナショナル、我らがもの」の旋律が国によってだいぶん変えてあることで、スウェーデン、イタリアなどが顕著だ。とくにイタリアのはとても気に入った。まるでフランスのわらべ歌を聴いているかのようで、むしろ"Le bon roi Dagobert"などというような唄を思い出してしまった。うまくは言えないが、ヨーロッパ・コーカソイドの草莽的心性がずっと連なっている感じ、とでも表現すればやや近いだろうか。
 それはそれとして、この歌のルフランのところの歌詞はやはりすごい。「セ・ラ・リュット・フィナール」というのだから。ミレニアム黙示録の世界だ。社会主義がcredoであることがよくわかる。
 ちなみにここは中国語版でも「チャシツイホウディトウジャン」とちゃんと直訳してあるのに、日本語の歌詞は「いざ戦わん、いざ」となんだか微温的だ。

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