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オペラ座の弁慶

○オペラ座の弁慶
 NHKテレビで、「オペラ座の弁慶」を観る。相撲嫌いのサルコジは、きっとこうした文化もわからないだろう。文化国家フランスが、移民出身の最も非文化的大統領を選んだわけだ。
 歌舞伎はフランスで絶対に通用する。誇り高いフランス人が、「自分たちが理解してやれるレベルに達している」と認めうるものだろうからだ。日本をそのように見ているということだ。

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氷山の一角情報

●氷山の一角情報
 二酸化炭素削減についても、人為的な要素のみではないという見解もあるようで、また温暖化についても、大きな地球気候変動の波で考えると、まったく違った見方になるようで、なにを信用していいものやら判らない。
 年金宙ぶらりん問題も、表には出ない事情が氷山の下の部分ほどもあるはずで、お金が真に、どこに、誰に回っているのか、われわれは限られ、選ばれた情報しか与えられていない。介_護_大_手会社問題もそうだし、ミツバチの問題もそうだし、どうやらアフリカと中東の小麦にも病害問題があるようだ。
 テレビのニュース番組でもそうしたニュースはほとんど触れられないか、ごく限られた部分だけを10分、あとは「パンとサーカス」画面が30分だ。
 笑いは健康にいいが、脳みそが融けてしまうのは困る。笑うことで脳も丈夫になればいいのだが。

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島崎藤村と北村透谷

○島崎藤村と北村透谷
 心覚えまでに書いておく。こうしたことを指摘している人がいるか否か、それもわからない。
 藤村にとって、透谷は「父」であった。
 藤村は、実際は父を知らないはずだ。その息遣いその他は、長兄の妻、実姉などから聞いているのみだ。そこで、青山半蔵の造形については、歴史的事象は『大黒屋日記』から、また晩年の悲劇的容貌については姉の晩年のありさまから、それぞれ取って作り上げたのだ。しかも藤村が文学・芸術の道に進むに当たって、父はなんの契機にもなっていない。
 ところで、文学者藤村を生むきっかけとなったのは、透谷の評論であることには疑いないだろう。つまり、芸術家藤村にとって、透谷こそが「父」なのである。しかも自殺まで考えて踏み止まった藤村をまず迎え入れ癒すのは、透谷なのだ。ここで藤村は「更生」する。だから「新生」といってもいい。ところが透谷自身は、そうして新しく生まれさせた藤村に自分の命を託すかのように逝ってしまうのだ。
 のちの藤村は、透谷の思い出について通り一遍の記述しかしていないが、それは歴史的一般論として書いているから思い入れを排したわけであって、「父」としての透谷の存在は、『夜明け前』にはっきり刻印されている。
 それは、乱心する直前の青山半蔵の一夜の感懐が、透谷の「一夕観」をそっくり口語に置き換えたもの(人物を西洋人から幕末日本人に入れ替えたりしている)となっていることからもわかるし、これは『夜明け前』あとがきで三好行雄がつとに述べている。
 しかしそれだけではない。『春』の中には、自殺漂泊行に出る前の藤村を訪ねて来た透谷が、こんな行動をする場面がある。
 急に青木は耳を澄ました。
「あ、誰か僕を呼ぶような声がする」
 と言いながら、彼は両手を耳のところへ宛行って、すこしし首を傾げていたが、……
 これは『夜明け前』では、妄想に駆られ始めた青山半蔵が取る、
……ふと夜の空気を通して伝わって来る遠い人声を聞きつけて、両方の耳に手をあてがった。
「あ──誰か俺を呼ぶような声がする」
……彼はまた耳を澄ましながら、……
といった行動に、寸分違わず写し取られている。
 青山半蔵も北村透谷も、どちらも時代に破られて滅びていく。かれらの理想は実現されない。その意味からは、透谷の生きた19世紀明治時代も、いまだ「夜明け前」なのだ。
 この「夜明け」に日が射したのが、色川大吉も示唆するごとく日清日露の戦争によってであったというのは悲しむべきことで、だからその日は青天白日の日ではなく、すでに陰が差しているわけで、それが日本の針路を再び暗くする。
 そこからすれば、生き残った文豪藤村にとっても、時代はけっして人ごとではないはずだ。もし藤村が敗戦後にもなお生きていたとしたら、藤村はどうしただろうか。また藤村に対する世の評価はどうなったことだろうか。
 「夜明け前」は、太平洋戦争のときにも続いていた。そして今もなお続いている。

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「殯の森」監督帰国

●「殯の森」監督帰国
 「日本の美しさを表現」とか言っているようだが、安_倍☆三に思い切り利用されるのではないか。
 モンゴル人が横綱になっているようで美しい国もなにもないものだと思うが。

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松_岡_農_水_相

●松_岡_農_水_相
 この事件は、昔ならば内_閣が吹っ飛ぶスキャンダルだと思う。恐らく裏には、表面に現れていることの100倍もの事情が隠れているとは、誰しも思うことだろう。2000年前の漢代と変わりない。物言えば唇寒しの時代の再来だ。

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今日は雨

○今日は雨
 今日は雨。Uターンの人々も大変だったろう。
 もう氷雨というわけではあるまい。とはいえ肌寒いのはたしか。
 それでも、雨が汚染を清めてくれていると思えば、それもありがたい。
「夢も希望もない」方が望ましい、と説くセラピストがいるという。つまり、夢や希望というのは、現状に不満があるから持つ(不満はその状態を引き寄せる)のであり、むしろ必要なのは「感謝」なのだという。なんでも完了形で考えろとは、よく言われることだ。
 このあたりのマジックというか、「認識の転換」の感覚は一瞬の「呑みこみ」で、いわば「不立文字」だろう。
 私はこの間の試験の前のとき、学生に「大いにあきらめろ」と言った。つまり「あきらめる」とは「絶望」ではなく「明らめる」のであって、「明らめ」れば試験準備で何が足りないか、どこを復習すればいいか、すっかりはっきりする。
 ちょっとそのあたりと似ているかもしれない、とも思った。

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ディスカバリー・チャンネル

○ディスカバリー・チャンネル
 今日はずいぶん暑い。やっと服の入れ替えもした。だがこのままだと、合服の季節は短そうだ。
「ディスカバリー・チャンネル」で元寇のことをやっていたので観る。海洋考古学者の林田先生が出てくる。先生のことばに合わせてかぶさる英語が、いかにも日本人発音の英語であるのが可笑しい。この日本人英語は、アメリカではだいぶんポピュラーになっているようだ。時代考証もデタラメ、相変わらずステレオタイプ。
 それはともかく、元寇の失敗の原因は、日本軍の防戦により橋頭堡を築けなかったこと、拙速な計画により軍船の品質が悪かったこと、竜骨のない川舟まで動員したこと、そしてそれらの失点が台風で一挙に露呈して壊滅したことだという。
 その結果、モンゴル帝国の威信は揺らぎ、やがては衰退に繋がっていったというのが結びだった。
 日本と戦って失敗し、ついには滅びた国といえば、元、そしてロシアが挙げられる。日本は世界史の関鍵となる国だ。世界は日本に対して火遊びをしないほうがいい。
 でもアメリカには負けた。アメリカは文明史的に、十分研究を重ねて臨んできたのだろう。
 いやしかし、まだわからないかもしれない。歴史は百年単位で見るものだから。

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高校野球特待生334校

●高校野球特待生334校
 家が経済的に苦しくて、一つの才能が極めて秀でており、なおかつ学校の名声を高めることのできる生徒に奨学金を出すのはそれほど不都合ではないだろう。しかしこう言うと、「奨学金をだすほどの余力もない学校に入って、しかも優れた才能を持った生徒と不公平が出る」その他さまざま異論も出るだろう。
 むしろ重大な問題は、利権に群がる中高野球指導者とプロとの金銭的癒着の方で、それがいつの間にか別のテーマにすり替わっている、という指摘もあるようだ。きっとそこを追求すると、リトルリーグまで行ってしまうのではないか。
 私が思うに、もうプロ・アマなどというブランデージ的区別は有名無実、雲散霧消しているのだから、いっそのこと高校野球もスポンサードシステムを導入してしまうのはどうだろうか。それでユニホームに協賛企業の広告を縫い付ければいいのだ。ちょうどF1のスーツのようなものだ。
 子供に商売を教え込む「キッザニア」などというものも大当たりしているのだから。

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小説

○小説
 タレントやお笑い芸人が小説を書き、それが大当たりして、映画になったりすることが引き続いている。
 昔は「文士」という社会的身分の人が肩で風を切って歩いたし、「文壇」には恐るべき権威があった。知的階級の最高峰とみなされたし、反権威・反権力・反体制の代表選手でもあった。
 時代とメディアが変わったのだ。キーボードとネットによって。
 とはいえ、思えば、小説が芸術の頂点のような顔をして君臨したのは、たかだか近代主義の150年のことだったろう。
 

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都知事選

●都知事選
 食事に出た車の中で、「開票開始と同時に当確の速報が打たれるよ」と妻に言っていたが、そのとおりになった。というよりも、誰しも予想していたことだったろう。
 民主党は手際が悪すぎる。北海道知事選だって、あそこは鳩山の地盤だろう。むしろサボタージュなのではないかとすら勘繰りたくなる。岩手は小沢の地盤でうまく行ったではないか。
 今の日本には、筋を通す、愛嬌を持った、人間味ある野党政治家がもういない。しかもそれに加えて今の日本人にとって、なかんずく20代から40代くらいまでのかなりの部分の有権者にとって(だと推測するのだが)、打倒したり革新したり反対したりするべき対象としての権力とは、不思議なことに自民党とそれにまつわる勢力やシステムではなく、まったく逆に、民主党、官公労、教組、それにマス「ゴ」ミと呼ばれる側なのだ。かれらにとっては、まず第一義的にこれらの側こそが、鼻持ちならない長袖者としてかれらを威圧し、きれいごとを押し付け、未来をつぶした元凶として、ルサンチマンを投影する対象なのだ。

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