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「こち亀」30周年記念

○「こち亀」30周年記念
 夕方、書店で『週刊少年ジャンプ特別編集[こちら葛飾区亀有公園前派出所]連載30周年記念出版 超こち亀』(秋本治、集英社、2006年9月)を見つけ、つい買ってしまった。
 こち亀そのものよりも、むしろ執筆協力者の名前に惹かれた。超大御所やなせたかし、水野英子、水島新司、ちばてつや、それにあのハイセンス望月三起也。秋本治の同時代人として小林よしのり、コンタロウ。コンタロウはとくに、あの傑作冗談漫画「1・2のアッホ!!」の中のメインキャラクター「カントク」が忘れ難いが、まだ「山止たつひこ」名義で描いていたころの秋本治は、その名キャラクター「カントク」を、少年野球の監督として1コマチョイ役で登場させていることを、今も私は覚えている。
 他には原哲夫、吉田戦車もオマージュを捧げている。
 私はほんとうにごくごく初期のものしか読まずに終わったのだったが(大学卒業後は専ら「じゃりン子チエ」と「北斗の拳」のみに宗旨替えしたので)、このどちらかと言えばアナーキーな作品がここまで長寿を保ち、人口に膾炙し、この粗野な警官が「寅さん」並みの国民的知名度を持つに至るとは予想だにしなかったし、作者の秋本治が下町散歩のエッセイ集まで出すとは思いもしなかった。
 作者と作品が、ともに成長していった軌跡というものだろう。

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食品偽装

●食品偽装
 比●地鶏の偽装。「加工すればわからない」とか。しかも「廃_鶏」という、年を取って肉が硬くなったものの方が、かえって地鶏の風味に似るそうだ。
 だったら、ブランド品て何だ、ということになる。鶏は鶏だし、鶏であればいい、だけではないか。
 ところが、ごくふつうの「鶏」が、もはや「鶏」ではなくなっていた(一種の人工加工製品になっていた)ので、一躍「地鶏」がそれに対するオルタナティブとして脚光を浴びた。自然、健康、地域おこしなどがキーワードだ。
 だが「地鶏」が本来要するに「ふつうの鶏」なので、人工加工製品と堕したふつうの「鶏」が、本来の「ふつうの鶏」となればいいのであって、そうなったら「ふつうの鶏」も「地鶏」も、そんなに区別すべきものでもないのだろう。
 それどころか、人工加工製品としてのふつうの「鶏」も、「ふつうの鶏」も、「地鶏」も、区別がつかないではないか。

 赤_福だって、正直に「冷凍解凍処理をしていますが、品質・食感・衛生面にまったく問題はありません」と堂々表明すればなんの問題もなかった。そして「伊_勢の本店では毎日作りたてを出しておりますので、どうかご来店ください」とかなんとか宣伝すれば、それこそ千客万来で相乗効果だ。
 それが変にお高く止まった営業などするから、こうしたことになる。
 

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巷では(柳亭痴楽風)

●巷では(柳亭痴楽風)
 水曜日は授業、木曜日は卒論指導で4時間、金曜日は授業。帰るともう、「体力の限界ッ!」という感じで、晩酌にビールでも飲もうものなら疲れが引き出され、とうていブログを書く気力もない。夜風に吹かれながらホームのベンチで休むのが救いというものだ。
 今日土曜日も会議が入っていて学校に出る。その後は上司の先生と食事をして帰宅。三軒茶屋の銀座アスターの「陳麻婆豆腐」は、かなり四川成都風の本格だ。こんな味は久し振りに食べた。
 巷では亀_田、赤_福と、スキャンダルが続々。赤_福事件は、お伊勢さんもがっかりだろう。ここも何代目若社長だか知らないが、危機対応と管理が悪すぎる。なにも教訓にしていなかったな、というところだ。
 亀_田は、セコンドでの父と兄の暴言がそっくりマイクに拾われ、しかもそれがYou Tubeにアップされて墓穴を掘ってしまった。き_っ_こも鬼の首を取ったようにリンクしていた。一瞬たりとも気を抜けない、失言の「し」の字も許されない、恐るべき時代となったものだ。
 しかし、「洗いざらい」明るみに出るのならば、政治と経済こそ「洗いざらい」になってもらいたいものだ。
 自民党は世間の目が逸れて、さぞかしほっとしていることだろう。

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江夏

○江夏
 194さんからのコメントで思い出したので、書いてみる。
 昔、鍼の先生に、「私は、全部ストレート、三球三振で、1打者3球、1回9球、9回計81球でなければ満足できないのです」と言ったら、先生は、「そんなことしなくても、1球ずつ打たせて取れば、計27球で料理できるよ、野手がいることを忘れてはいけない、だいたいそれでは守っている人間が面白くないではないか、野球は9人でしているのだ」と諭された。そんなことはまったく考えてもいなかったので、意表を突かれて愕然とした。自分の行いを完璧に、無欠に、無謬にすることしか頭になかったのだ。
 後でこの話を妻にしたら、「江夏ね」とひとことで片付けられた。

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スピリチュアル風

○スピリチュアル風
 これもスピリチュアル風。

 着ていた服を、替えようと思って、はっと思った。
 この服を、愛していなかったかもしれない、と。
 愛していないから、向こうも愛してくれないのだ。
 愛して着てこなかったではないか。
 そんな風にして捨ててきたものが、どれだけあったろうか。
 それで捨ててから、向こうがこちらをけっこう愛してくれていたことがわかるのだ。
 愛していないから、そういうことになる。
 持っているときは、不満ばかり。
 いい服じゃないか、愛してみよう。こう思った。
 その場で、そのものを、愛してみよう。
 自分もだ。
 自分が自分であるその自分を愛してみよう。
 そうしたら向こうも機嫌がよくなるだろう。

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ミャンマー騒乱

●ミャンマー騒乱
 後ろでアメリカが糸を引いていることは間違いない。
 88年、ミャンマー騒乱の光景を、留学中の中国で観ていた。ほどなく、チベット自治区で「暴動」が起きた。そして翌89年には、まさか自分のまさにお膝元で天安門事件になるとは、まだ思ってもいなかった。
 それから考えると、今度のミャンマー騒乱も一国の民主化運動などといった話ではなくて、何か大きな世界的政治変動の幕開け、序の口だと思う。なぜなら、天安門事件に引き続いて東欧革命が始まり、89年の終わりにはベルリンの壁が崩壊して、それから湾岸戦争、ついに91年にはソビエトが消滅してしまったのだから。
 アメリカは今度もミャンマーで何かの政治的効果を試したのだ。88年のときと同様に、次はチベットか、それとも新疆か。狙いは中国? 北朝鮮? それともイラン? ともかく短期ではなく、中期的以上のスパンで見通す必要があるだろう。

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「ぜんまいざむらい」と「おでんくん」

○「ぜんまいざむらい」と「おでんくん」
 2つのアニメを観た。ちょんまげがぜんまいの「ぜんまいざむらい」はこの頃、なんとなく可愛らしく思えてきた。
 「ANIME」「MANGA」全盛の時代とはいえ、上の2つは世界には受け容れられないし、通用しないし、理解され得ないだろうと思った。「ぜんまいざむらい」はからくり仕掛けの中の江戸の話、「おでんくん」はおでんの鍋の中の話。どちらもミニマリズムの極致だ。極小が極大を、普遍を語る。茶の湯、俳画、俳句、浄瑠璃、日本人の最も得意とする境地だ。
 結局日本人は、ここに行き着くのだ。そしてまた、世界から隔絶していく。
 だがそれが悪いだろうか。
 アトムも鬼太郎も、つまり日本で最も芸術的かつ精緻に洗練されたこの両者とも、世界的にはまったく評価されていないのだ。
 グローバリティなど日本には必要ないのだ。
 日本はその成り立ちから、すでに世界なのだから。
 光は東方より上り、地球を一周して、結局日本に帰ってきた。

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福_田_執_行_部_誕生

●福_田_執_行_部_誕生
 みなで手を繋ぎ合ってカメラの前に立っている画面を見て、ゴルバチョフ追放劇を思い出した。
 今回の福_田_擁立劇は、「反_小_泉レ_ジ_ー_ム」_ク_ー_デ_タだ。もっと言えば、「反〈戦_後_レ_ジ_ー_ム_否定〉_ク_ー_デ_タ」だったのだ。政権から降りない安_倍を、みなで倒したのだ。麻_生によるク_ー_デ_タなどとは、とんでもないだろう。今日の記者会見で、口も利くのもやっとの安_倍が、白い顔で、発音も覚束なく否定していた。つまり、話は逆なのだ。
 だから今度の政権は、「挙国一致救国戦線内閣」くらいのつもりだろう。選挙管理内閣ではなく、危機管理内閣だ。ほんとうは、あのとき、橋_本_竜_太_郎が作っておくべきだったのだ。
 ゴルバチョフのときにはエリツィンがいたが、麻_生ははたして「日本のエリツィン」になれるか。あるいはガリバルディやムッソリーニのようになれるか。
 秋_葉_原で街頭演説でもして、かねて用意のTシャツでも配ってア_キ_オ_タ_たちを糾合し、国会に攻めのぼれ。それで前_原_グ_ル_ー_プあたりに呼びかければ、政権は奪取できるだろう。
 しかし肝心の大多数の日本人たちは、むしろその逆を望んでいる。
 

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飲みすぎ

●飲みすぎ
 21日、22日と、会合で酒を飲んで帰宅する日が続く。するともうブログが書けない。
 昨日は友人の会で、飯田橋揚場町の創作和食の店「軽子坂 MIMASU」で、3人で赤ワイン2本、白ワイン1本を空け、それからさらに二次会で虎ノ門の「和の酒BAR いな吉」で日本酒を覚えていないくらい飲んだ。「いな吉」の選ぶ酒はどれも極上で、しかも出し方がうまい。綺麗であっさり→品のよい個性派→すっきり軽めでまとめ というような具合だ。
 MIMASUも一見フレンチかというような構えで、じっさい美味いワインの方がメインだ。料理はあっさり目で、これも品がよい。

 おかげで、今日は休日出勤だったのだが、酒が抜けずに弱った。もちろん「いな吉」の酒で二日酔いなどになるはずがない。アルコールが抜けなかったというだけだ。今日、明日は酒を控えよう。

 福_田_総_裁は誕生したが、この政権がなにを目指すのかは、まったく分からない。麻_生には次の目もあるだろう。ア_キ_バのネ_ッ_ト_イ_ナ_ゴも、あんなプラカードだけで応援しているようではダメだ。「権力は街頭からしか生まれない」これは文明1万年の真理だが、これを喝破したのはヒトラーだったか、ゲッペルス博士だったか。いやレーニンか。それともトロツキー? もっと古くてデムーラン? ネ_ッ_ト_イ_ナ_ゴは、自らが紅衛兵やSAやサンキュロットのようになることには恐怖するだろう。

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スピリチュアル風

○スピリチュアル風

  スピリチュアル風です。不評なら消します。

「アセンション」とか「クオンタム・リープ」とかいうことを説いているサイトを見るたびに、どうも「選ばれた人」や「気づいた人」の優越感が潜んでいるような気がします。

「気づいた人」は「アセンション」できたり、「波に乗れる」が、そうでない人は救われないまま取り残されるか、はなはだしきは「消滅」してしまうかもしれないらしいのです。「消滅」まで極端ではないにせよ、要するにカルマを解消できぬまま際限なく転生を繰り返し、課題の解決ができずに人生学校を落第・留年し続けるというわけです。

 だから、そうならないために「気づけ」「生活を改善せよ」「生き方を改めよ」「自分を愛せ」「感謝せよ」と言われるのですが、それらは勿論、当然の上にも当然だと思う一方で、どうしても「先に気づいた人たち」に、幾許かの哀れみの念を以て見られているような気がしてならないところがあるのです。

 でも本来、宇宙は広大無辺の愛なのですから、そんな不公平・不平等があってはならないし、またあるはずもないと思うのですが、それでもまだ何となく、納得のいかない気持ちが残ります。

 わかりやすくするために、例を挙げてみましょう。
 いまあなたが、寒中水泳をしているとします。決められたコースを、決められた時間内に泳げば、岸に上がって、温かい汁粉が待っています。いや、最後には、どんなへまな奴でも必ず汁粉は貰えるのですが、ともかく標準タイムを突破できないので、なかなか岸には戻れません。どうもちょっとしたコツで早く泳げるらしいのですが、それがどうにも分からないのです。
 回りの人間はみんなどんどんタイムをクリアして上がっていき、笑いながら汁粉にありついているのが、波間から見えます。「××、手をこうすりゃいいんだよ」とか叫んでくれるのですが、なかなかどうして、そう簡単にいくものではありません。寒いし、うんざりしてくるし、腹は立つし……。
 そのうち、「××、もういいよ、上がれ」とかコーチに言われて、がたがた震えてタオルにくるまりながら汁粉をすすっても、課題をクリアできなかったのだから、ちっとも嬉しくありません。そんな感じでしょうか。

「いや、だから、不公平だとかぶつぶつ言っている間に、まず踏み出してしまいなさい、気がつく方に回ってしまいなさい」と畳み掛けられそうな気もするのですが、ではいったい、どうすればいいのでしょう。

 昔、子供の頃、自転車を練習していたときに、何度乗り出しても転ぶのです。というよりも正確には、転ぶことが怖くて「転ぶ前に足を出して」しまうのです。放課後のことで、しだい日は暮れてきます。遊び仲間にはからかわれます。とうとうやけっぱちになって、「もう転んで怪我をしてもいいや」と思ってペダルをぐんと踏むと、乗れました。

「もういいよ、まかせた、あとは勝手にしてくれ」と、自分でもがくのをやめる。すると手足が急に伸びて、楽になる。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということばが頭に浮かびました。「放下」と言ってもいいでしょう。いや、なにもそんな過去のことば遊びで観念を固定し、抽象化しなくてもいいではありませんか。

 みんな最後の宇宙のゴールは同じなのだから、必ず汁粉は待っているのだから、くよくよするな、気にするな、安心していろと思った瞬間、実は泳げているし、自転車に乗れているし、「流れに乗れて」います。ぶつくさ言っていた自分は、消えています。「あいつらは優越感を持っている」と思っていた自分が、消えています。

 そこで気づきました。「これこそがクオンタム・リープではないのだろうか」と。

 というか、帰りのバスに乗って、上に書いたようなことを考えているときに、そう「頭の中に浮かんだ」のでした。これもクオンタム・リープかもしれません。

 自分で思ったのか、それともガイドか何かが吹き込んだのかは分からないのです。
 きっと両方なのでしょう。

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