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●食品偽装
比●地鶏の偽装。「加工すればわからない」とか。しかも「廃_鶏」という、年を取って肉が硬くなったものの方が、かえって地鶏の風味に似るそうだ。
だったら、ブランド品て何だ、ということになる。鶏は鶏だし、鶏であればいい、だけではないか。
ところが、ごくふつうの「鶏」が、もはや「鶏」ではなくなっていた(一種の人工加工製品になっていた)ので、一躍「地鶏」がそれに対するオルタナティブとして脚光を浴びた。自然、健康、地域おこしなどがキーワードだ。
だが「地鶏」が本来要するに「ふつうの鶏」なので、人工加工製品と堕したふつうの「鶏」が、本来の「ふつうの鶏」となればいいのであって、そうなったら「ふつうの鶏」も「地鶏」も、そんなに区別すべきものでもないのだろう。
それどころか、人工加工製品としてのふつうの「鶏」も、「ふつうの鶏」も、「地鶏」も、区別がつかないではないか。
赤_福だって、正直に「冷凍解凍処理をしていますが、品質・食感・衛生面にまったく問題はありません」と堂々表明すればなんの問題もなかった。そして「伊_勢の本店では毎日作りたてを出しておりますので、どうかご来店ください」とかなんとか宣伝すれば、それこそ千客万来で相乗効果だ。
それが変にお高く止まった営業などするから、こうしたことになる。
○スピリチュアル風
スピリチュアル風です。不評なら消します。
「アセンション」とか「クオンタム・リープ」とかいうことを説いているサイトを見るたびに、どうも「選ばれた人」や「気づいた人」の優越感が潜んでいるような気がします。
「気づいた人」は「アセンション」できたり、「波に乗れる」が、そうでない人は救われないまま取り残されるか、はなはだしきは「消滅」してしまうかもしれないらしいのです。「消滅」まで極端ではないにせよ、要するにカルマを解消できぬまま際限なく転生を繰り返し、課題の解決ができずに人生学校を落第・留年し続けるというわけです。
だから、そうならないために「気づけ」「生活を改善せよ」「生き方を改めよ」「自分を愛せ」「感謝せよ」と言われるのですが、それらは勿論、当然の上にも当然だと思う一方で、どうしても「先に気づいた人たち」に、幾許かの哀れみの念を以て見られているような気がしてならないところがあるのです。
でも本来、宇宙は広大無辺の愛なのですから、そんな不公平・不平等があってはならないし、またあるはずもないと思うのですが、それでもまだ何となく、納得のいかない気持ちが残ります。
わかりやすくするために、例を挙げてみましょう。
いまあなたが、寒中水泳をしているとします。決められたコースを、決められた時間内に泳げば、岸に上がって、温かい汁粉が待っています。いや、最後には、どんなへまな奴でも必ず汁粉は貰えるのですが、ともかく標準タイムを突破できないので、なかなか岸には戻れません。どうもちょっとしたコツで早く泳げるらしいのですが、それがどうにも分からないのです。
回りの人間はみんなどんどんタイムをクリアして上がっていき、笑いながら汁粉にありついているのが、波間から見えます。「××、手をこうすりゃいいんだよ」とか叫んでくれるのですが、なかなかどうして、そう簡単にいくものではありません。寒いし、うんざりしてくるし、腹は立つし……。
そのうち、「××、もういいよ、上がれ」とかコーチに言われて、がたがた震えてタオルにくるまりながら汁粉をすすっても、課題をクリアできなかったのだから、ちっとも嬉しくありません。そんな感じでしょうか。
「いや、だから、不公平だとかぶつぶつ言っている間に、まず踏み出してしまいなさい、気がつく方に回ってしまいなさい」と畳み掛けられそうな気もするのですが、ではいったい、どうすればいいのでしょう。
昔、子供の頃、自転車を練習していたときに、何度乗り出しても転ぶのです。というよりも正確には、転ぶことが怖くて「転ぶ前に足を出して」しまうのです。放課後のことで、しだい日は暮れてきます。遊び仲間にはからかわれます。とうとうやけっぱちになって、「もう転んで怪我をしてもいいや」と思ってペダルをぐんと踏むと、乗れました。
「もういいよ、まかせた、あとは勝手にしてくれ」と、自分でもがくのをやめる。すると手足が急に伸びて、楽になる。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということばが頭に浮かびました。「放下」と言ってもいいでしょう。いや、なにもそんな過去のことば遊びで観念を固定し、抽象化しなくてもいいではありませんか。
みんな最後の宇宙のゴールは同じなのだから、必ず汁粉は待っているのだから、くよくよするな、気にするな、安心していろと思った瞬間、実は泳げているし、自転車に乗れているし、「流れに乗れて」います。ぶつくさ言っていた自分は、消えています。「あいつらは優越感を持っている」と思っていた自分が、消えています。
そこで気づきました。「これこそがクオンタム・リープではないのだろうか」と。
というか、帰りのバスに乗って、上に書いたようなことを考えているときに、そう「頭の中に浮かんだ」のでした。これもクオンタム・リープかもしれません。
自分で思ったのか、それともガイドか何かが吹き込んだのかは分からないのです。
きっと両方なのでしょう。