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今日のびっくり

○今日のびっくり
 今日のびっくりといえば、なんといっても「……」だろう。
 海のかなたではアマチュア歌手が大絶賛を浴びるかと思えば、こなた日本では人気絶頂のアイドルの不祥事だ。
 しかし素人考えでは、泥酔した人間など、ふつうは交番かどこかの「トラ箱(留置場)」か何かに一晩放り込んで、翌日はお帰り願って一件落着するようにも思うのだが、それはドラマの中での話で、現実の法律上はそうは行かないのだろうか。
 どちらも大きなコンテキストの中で見守るべき事柄かもしれない。

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ディズニーシー

○ディズニーシー
 妻とともに、五反田であるフェア会場を見た後、ディズニーシーへ向かう。大井の入口から高速湾岸線に乗り、おそらく30分ほどしかかからなかったのではないか。ずいぶん近いことに驚く。
 去年の秋にはディズニーランドを訪れたが、両者に共に思うことは、マーケティングとマネジメントの巧みさだ。「行けばぜったいに散財する」ように作られてていて、しかも「それをむしろ喜びに思わせ」る。いや、「出したお金よりも値打ちがあるものを得たように、かならず思わせる」といった方が、より正確だろう。ここにホスピタリティの真髄があるわけだ。だからここでは、われら日本人も含め「とげとげしい我れ先」が得意中の得意のアジア人たちが、文句も言わずに微笑みながら行列を作り、アトラクションの順番が来るのを待っているのだ。
 前から思っていることだが、アメリカは世界に軍隊を派遣するよりもミッキーを派遣したほうが、ずっと安上がりに、しかも手早く、もっと重要なことには平和に世界を心服させ、征服できるだろう。つまり、基地の代わりにディズニーランドを作るのだ。偶像(アイドル)禁止のイスラーム世界でも、そこはなんとか解決すればいい。
 しかしそんなことはアメリカ自身が百も承知のはずで、それでなおそうしないのは、もちろん軍事産業の儲けの桁が、どだい違いすぎるからなのだろう。

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神棚

○神棚
 神棚というものを見て思う。
 神棚は、まさに「神社の杜」の小型版だ。ただ拝殿に形を似せて作っているというだけではない。質も機能も、そのものだ。
 榊があって、ひもろぎを成す。お札は依代だ。これは氷河チベットの白石(アルプ)、モンゴルのオボ、道教の石敢当、中国の社稷である「土」に相当する。だから「土」に神的作用を表わす「示(ネ)」がつけば、それは神社の「社」となる。また、「土」にはいずれ木が生えるが、それは「青山」となり、死者に新たなエネルギーを与え甦らせるための「墓」ともなる。中国、沖縄、韓国の墓がこれだ。そして、榊に見られるように、「土」に「木」がつけば、それは神社の森である「杜」となるのだ。
 神棚を置くことにより、それぞれの家に、「杜」ができ、「社(やしろ)」ができる。「神社」ができるのだ。
 チベットの自然宗教、道教、風水、日本の神道などは、このようにしてつながっているのだろう。

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中原中也の詩

○中原中也の詩

 今日は何も題材がない。

 考えていると、中原中也の一節を思い出した。

   つまり、我等に欠けてるものは、
   実直なんぞと、心得まして。

   ハイ、ではみなさん、ハイ、ご一緒に──
   テムポ正しく、握手をしませう。

   (「春日狂想」)

 こんな感じかな。
 なんとも形容しがたい、感傷的な風船がふくらんで爆発したいような自省の気持ちを、中原中也はよく表現する。
 
 世は多事多端に見えるが、わが首相はなかなかうまく立ち回っているようでもある。
 第一次大戦ころの世の中とは、どんなだっただろうか。
 賢治もこの時代だ。
 
 

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今日は休み

○今日は休み
 今日はゆっくり休んだ。
 明日から本格的授業の開始だ。
 気候もようやく落ち着いてきたようで、ゆったりとやっていきたい。
 私の授業は、どうしてもやや性急になる。こんな進み方では、とうていシラバスの最後まで終わらないのではないか、という強迫観念に駆られるのだ。
 しかし結局、ここしばらく、シラバスどおりに終わったためしがない。年々、話す内容が増えているようなのだ。刈り込まねば、と思いつつ、どうも踏み切れない。
 今年度は、そのあたりを少し思い切ってみよう。
 こんな風に考えていると、明日のことを考えて気の重いのが、少し晴れた。

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オリンピック雑感

○オリンピック雑感
 映画『東京オリンピック』を観ると、当時の東京の大気は相当汚れているように見える。「スモッグ」というやつだ。ときどき60~70年代ビンテージカーの行進などあるが、後に残される排気ガスの臭いに、頭が痛くなる。小学生のころは、あれが一向に平気だったのだから、今の北京に心は痛むが、どうこう言えたものではないという気もする。ただ前車の覆轍に学び、繰り返さないことを祈る。それとも、それを一度通らないと、やはり学ぶこともできないのか。
 むしろ当時のオリンピックと今のそれとの違いは、選手の態度だ。前にも書いた記憶があるが、東京オリンピックのころ、勝った選手はむしろ悲しげな顔をしてうつむき、それを負けた選手が笑顔でねぎらい祝福する。はでに手を上げたり、国旗を体に巻きつけたり、フィールドで大の字になって喜びを表わすなどということはしない。
 つまり「満ちた月は欠ける、上がりきった水は下がる」わけで、頂点に立ったら後は落ちるしかない。勝者はそれを知るからむしろ悲しむ。敗者もそれを知るから「心配するな、これでもともとだ、またこれからがある」と、もう一度ゲンをかついでいたわるのである。「勝って兜の緒を締めよ」というのもこれだ。
 これがdecentというもので、昔は世界中の人にこの慎みがあった。
 これがなくなったのと、オリンピックが商業化したのとが、ちょうど重なるように思うのだが。
 そう考えると、棄権した選手を国賊扱いするなどとはもってのほかだ。だれが土佐選手を袋叩きにするものか。東京オリンピックでは、そんなことはしなかった。それでも円谷は自殺したのだから、そんな悲惨なことはしないがいい。
 

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終戦記念日

●終戦記念日
 終戦記念日ではあるが、私は少々手の腱を痛め、整体治療院に行かねばならなかった。
 お盆だというのに治療院はちゃんと開けていて、患者も引きも切らず。先生は親切。
 こうして、さまざまなところで、さまざまに働いて、この国や地域や社会を幸せに支えていること、それが英霊への最高最大最良の供養なのではないだろうか。
 べつにこの日に、あんな状態の靖国へ行かなくともだ。
 というのが、今日の私の感慨だ。

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ドカベン

○ドカベン
 コンビニに寄ったら、『ドカベン』のペーパーバック版が出ていたので、つい立ち読みしてしまう。気がついたら1時間。
 今改めて読み返してみて思うのは、水島新司はやはり人情マンガにこそ、その本領があるなということだ。読んだのは第一巻なのだが、ここではドカベン山田太郎は、まだ中学生、しかも舞台は柔道部だ。もちろん柔道のみならず、学園生活全般もよく描き込まれ、伏線も十分張られている。貧しく明るいドカベン一家、富裕だが成金に付き物の偏頗さを併せ持つ岩鬼家、実に類型を踏んでいるが、それが安心して読める所以でもある。
 これがしだいに野球一筋に特化していってしまうわけだが、ともかく初期の水島新司のマンガは、細やかだがくじけない、そうした人を信じる真心を描かせたら一品だ。野球に題材をとった『ダブダブ1ちゃん』(兄が貰った王選手のユニホームを勝手に着て出た子供が活躍する)ですら、基本は人情、触れあい、助け合いだ。
 またあらためて面白かったのは、このころは結構、楽屋落ち的なサービスが随所にちりばめられているということだ。たとえばドカベン一家が「たまに」行く銭湯の番台に座っている「十円クン」は明らかにつのだじろうのキャラクターだし(つのだじろうといえば、この人も恐怖物に行く前は『忍者あわて丸』などのギャグマンガで鳴らしたものだが、もっと遡ると、『どんてん大将』に見られるように、人情劇を描かせたら最高なのだ)、柔道連盟の若き実力者は、武内つなよしの名作『いがぐり君』へのオマージュ、成人した姿だ。
 復刊ペーパーバックには、こんな新たな発見の面白さもあった。

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竹島問題

●竹島問題
 文部科学省の判断が拙劣なのだとは思うが、それより何かもっと大きな問題を隠すための眼くらましだろう。背後で大きく手を組んで得をしようとしているのは誰か、あるいはどこか。

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「スピード・レーサー」

○「スピード・レーサー」
 映画「スピード・レーサー」を観てきた。昭和40年代アニメ「マッハGoGoGo」のハリウッドSFX実写版という以上の予備知識を持たないで、懐かしさと期待を持って観に行った。封切日に映画館に行くなどとは、私としては破天荒。それだけ気が動いたということだろう。
 感想としては、人情、根性、浪花節、アクション、何から何までてんこ盛りのジェットコースター映画で、眼が回るよう。つまりウォシャウスキー兄弟は、最高で本格派のB級映画を作ろうとしたわけだ〈きっと「トロン」にも影響を受けたに違いない〉。
「ネタバレ」になるので詳しいことは書かないが、まず導入部、幼年時代の主人公がレースの空想にふけるシーンで流れる音楽が、当時のテーマソングの旋律。ここでもう「ああここまで「本歌」を使っているんだ」と、それだけで込み上げてくるものがある(後で調べたら、このテーマソングはアメリカでも英語に吹きかえられて、そのまま使われていた)。
 キャラクターも殆どそのまま。父親役のジョン・グッドマン(ベストキャスティングだろう)が、元レスリング・チャンプとして悪漢を頭上でぐるぐる振り回し投げつける場面は、同じく吉田竜夫が描き、TVドラマとして実写化された「チャンピオン太」の必殺技を思い出させて、もしかしてそんなものまで取り入れているのかと驚きもし、また感心しもした。
 ストーリーについて言えば、作劇上、「ここで(余韻を残して)終わっておいていい」という場面で終局させずに、あえて最後まで突き進む。しかも終結部分もあまりに予定調和的で、「次へのエネルギーを生み出す破綻」という点からは物足りないところもある。
 しかし監督兄弟は、「そんなことは百も承知の上で、わざとこういう風に作りましたよ。どうですか、所詮これはおとぎ話なんですからね、〈それで市が栄えた〉をやったわけですよ」と批評者に挑戦しているのだろう。実にやることがあざとい。
 エンド・ロールではテーマ・ミュージックが流れるが、「マッハGo!」と日本語の歌詞から入り、そこに英語の歌詞がかぶさって、しだいにさまざまに変奏されていき、最後の部分 "Go, Speed Racer...'"  に再び「マッハゴーゴー……」と懐かしい日本語の歌が重なっていく見事なオマージュとなっていて、ここでも危く涙滂沱となりかけた〈結局、映画の本筋とは違うところで感動しているわけだ〉。
 とうとう、マッハ号のステアリングを模したキーホルダーを、ボルボ240オンマニ号のキーにつけてしまうという「おまけ」までついた、楽しい映画だった。

*蛇足1:ニュータウンのシネコンで観たのだが、土曜日の午後、初日というのにぱらぱらの入り。近頃はこんなものなのか?
*蛇足2:最近の映画館では、本編上映前に、くどいほど「マナー遵守」のお知らせを流す。そんなに低下したのか?
*蛇足3:同日「インディ・ジョーンズ4」も観たが、結局スピルバーグは「アメリカン・グラフィティ」に帰りたかったのだな、そしてそれと「未知との遭遇」を合体させたのだなという感じ。
 

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