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●事業仕分け
役人叩きのパフォーマンス・ショーだ。初めから結論は見えているわけで、廃止項目は織り込み済みだ。役どころも台本も、ほぼ決まっているのだろう。
500億円というが、国家財政規模や外国資本との間で動くカネというのは、何十兆円というものであるはずで、それを考えたら雀の涙程度、廃止されても蚊が止まった程度のダメージでしかないだろう。
そんな中でも良心を持つて真面目に取り組んでいる人たち(そしてそういう人たちに役立つ分配は少ない)には気の毒だが、実はもっともっと大きなお金が動いていて、真に廃止すべき事業というものが、政官両者の了解の下、舌を出しつつ隠れているということだ。
●「アド街」と「昭和の面影」
今夜の「アド街」は、京急新子安駅周辺。
「昭和の面影」と言っていた。
このことばに、いつも引っかかる。
「昭和」といっても、なかなか長うござんす。
まず大きく分けても、「戦前」、「戦中」、「戦後」。まるきり違う。
そしてわれらが戦後も、昭和20年代、30年代、40年代、50年代、60年代と、それぞれぜんぶ違っている。しかも東京と地方では、これもぜんぜん違うのだ。もっと言えば、東京の山の手と下町とでは、同じ時期でも天と地の相違だ。
そのあたりが、テレビも映画も、平成のメディア製作者たちは考証がデタラメ、と言って悪ければ、まぜこぜだ。たぶん気鋭の30代は、もう昭和の末期の生まれなので、それ以前の時代のことは混然となって、またそれにエキゾチシズムを感じているのだろう。
もっとも人のことは言えないので、昭和の、特に戦後の人間にとって、明治や大正のことを考えるとき、やっぱりそれと同様のことがあるわけだ。
これが江戸になると……と遡っていって、ついには日本史年表の見開き2ページ分、てなことでまとめられてしまうのだ。