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ボルボ240、ヒューズ交換

○ボルボ240、ヒューズ交換
 午後から、ボルボ240オンマニ号のヒューズ交換をする。
 トレード・デザイン社の通販で、ボッシュのヒューズを調達してあった。これは「スティック・ヒューズ」、別名「セラミック・ヒューズ」というもので、日本ではその形から「芋虫ヒューズ」と呼ばれている。古い年式の欧州車は、みなこれらしい。アンペアによって、赤、白、青に区別される。ものは非常にヤワで、しかも導電部分がアルミでむき出しなので、湿気の影響で非常に腐蝕しやすいという。欧州だから通用する話で、日本ではきついだろう。三十年前、私が最初に乗ったスバル・レオーネ1600クーペの場合、みな管ヒューズだった。ボルボの話ではないが、ネットなどで調べると、電気に詳しい人によっては、パイパスしてしまってブレード・ヒューズにしているケースもある。
 ボンネットを開けて、バッテリーのマイナス端子を外そうとするが、メガネレンチが合わないことに愕然とする。もっと大きいものでなければならない。嶋電カミナリだのアースだのを締め付けてあるので、モンキーレンチは入らない。こういうときのためにバッテリーキルスイッチを装着していたのに、肝心のときには壊れていて役に立たない。止むを得ず、そのまま決行する。乱暴な話だ。
 91年式ボルボ240GLワゴンのヒューズボックスは、助手席左足許にあって、縦に並んでいる。一本外しては接点を磨き、ナノテク応用の嶋電スプレーをかけて、新品に交換ていく。たまにブラシが上と下の接点に当たって火花を飛ばしたりして、ひやひやする。まあ瞬間だから、大事は無いだろうと勝手に決める。それでも一回はブラシから煙が上がって肝を冷やした。
 久し振りなので、少し焦って、最後の白い奴のところで、ちょっと無理に押し込んだらしく、ヒューズ側のマウントが外れて一本無駄にする。ところが次のものも同じように歪めかけて、これはもうダメかと思ったが、外して何とか整形する。このあたり、原始的なものなので、多分これでいけるだろう。
 そうして最後の一本を押し込み、スタータをひねると、エンジンが無事かかる。どうやら成功。明日試運転してみる。
 心配は、キーレスエントリーの不調。右後部ドアノブが降りにくいのは、もしかして電流が少ないからかと思ってヒューズ交換をしたのだが、どうヒューズではないらしく、何度か試しているうちに、今度は助手席ノブまで降りなくなってきた。現在の最大の問題だ。

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奄美と沖縄をつなぐ

○奄美と沖縄をつなぐ

 午後から都心へ。
 新宿区牛込箪笥区民ホールで開かれた、「異種格闘技型トークセッションと新感覚シマウタ・コンサート 奄美と沖縄をつなぐ」という催しに行ってきた。
 奄美と沖縄、二つの地は文化的に近く、政治的に遠い。しかもその二つは歴史の中で綯い混ぜになってきた。
 そのあたりのところをまず四人のコメンテーターが自由に語り、その後のコンサートでは、同じ起源を持つ曲が、奄美で、また沖縄の各地でどのように変容していったかを、それぞれの演者が追う。
 心に残ったのは、沖縄が長調基調なのに対して、奄美は短調基調だということ。あまり奄美島唄を聴くことがないので、印象深い。
奄美と沖縄をつなぐ もうひとつは、トークの中で、藤木勇人氏が「いまや奄美に行くと沖縄らしさが残っている、沖縄は観光客向けに薄まってしまった」と述べていたことだ。それはまた同時に、沖縄と奄美との経済的発展の格差がついてしまつたということでもあるようだ。
 そんなことを、私はトークセッションの中から受け取った。そして、「沖縄はハワイ(エスニシティが多様化しすぎて全部薄まってしまった)になりつつあるのかも知れないな」というようなことを考えたのだった。
 コンサートのおしまいはカチャーシー。沖縄や奄美の出身の人たちも来ていたようで、観客席からも立ち上がって踊る年配者も多し。歌と踊りでこのように感懐を表わすすべを失ったわが身の悲哀を、こういうときはいつも感じる。

 さて打ち上げは例によって賑やかそのもの。舞台に出た人以外にも、シーサーズ関係者オールスターズがつめかけて、私もその驥尾に付した。多摩の奥地に越してからは、残念ながらいつも少々早めに暇を請うが、残った人たちはますます盛り上がったことだったろう。

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授業、風、雨、寒い

●授業、風、雨、寒い
今日は授業3コマ、雨、風、寒い。
疲れた。
晩御飯は玄米でよかったのだが、後でもの足りず、買ってあった助六寿司を食べてしまったのは悪かった。
ブログリンクの風写氏、湖水地方氏、みなここのところ、体調リアジャストメント中。他人事ではない。節食せねば。玄米、野菜、食べて魚か鳥。

ZARAのグレーのニットジャケット、着たくなった。

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即位二十周年記念

○即位二十周年記念
 私の印象に残っている思い出を書いておく。
 昭和の御世、今上陛下がいまだ皇太子のころ、大島三原山が噴火して、島民が晴海の体育館に避難したことがあった。
 殿下は間髪をいれずに体育館を訪問し(もちろん美智子さんも一緒に)、髪もあまり櫛を入れず、背広のズボンの折り目も定かではない具合で床に膝をつき、被災者に顔を突き合わせて慰謝していた。
 私は典型的な戦後民主主義教育世代だが、これをテレビ画面で観たとき、恐れ多いことながら、「この人」を新たな目で見るようになった。
 そのことを記しておく。

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事業仕分け

●事業仕分け
 役人叩きのパフォーマンス・ショーだ。初めから結論は見えているわけで、廃止項目は織り込み済みだ。役どころも台本も、ほぼ決まっているのだろう。
 500億円というが、国家財政規模や外国資本との間で動くカネというのは、何十兆円というものであるはずで、それを考えたら雀の涙程度、廃止されても蚊が止まった程度のダメージでしかないだろう。
 そんな中でも良心を持つて真面目に取り組んでいる人たち(そしてそういう人たちに役立つ分配は少ない)には気の毒だが、実はもっともっと大きなお金が動いていて、真に廃止すべき事業というものが、政官両者の了解の下、舌を出しつつ隠れているということだ。

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新しいリンク

○新しいリンク

 新しいリンクを一つ紹介します。
月の光森の海」という、ロマンチックな名前のブログ。作者は高校以来の友人である、湖水地方氏。題名に恥じない、感性豊かな文章が綴られている。
 かれは心の優しい人間で、大学受験浪人中に旅行に行ったとき、旅館の食事が悪かったか、どういうわけか手の甲に蕁麻疹の出た私に、「なんだ、大丈夫だよ」と、その手の甲をいきなりさすってくれた。赤い蕁麻疹のある手の甲をさするなど、なかなかできることではない。それ以来、私はかれを大いに多としている。
 そんな美しい心根の人間の書くブログだから、その内容も、たいそう心に響くものになっています。 

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東京大神宮界隈

○東京大神宮界隈
 今日は授業の前の時間を見計らって、飯田橋の東京大神宮に参拝してみた。併せて付近をちょっと探訪するつもりもあった。
 東京大神宮は、明治時代に伊勢神宮を勧請したもの。とはいえ、やはり本家とはずいぶん雰囲気が違う。この頃は縁結びで知られているらしく、参拝者は若い女性ばかり。私のような仕事用スーツ姿の男は場違いな雰囲気だ。
 近くで昼食をできる場所を探した。一つは一間ほどの、夜はそのまま飲み屋になりそうな沖縄そばの店。もう一軒はタイ料理屋。三軒目はフレンチ。気が向いて、フランスレストランに入る。この近辺には在日フランス人学校があり、フランス関係の本屋などもあって、それでこうした店もあるのだろう。名前は「東京フランス食堂」。フランス語関係者など、知る人は知っているようだ。いかにもフランス好きが作ったビストロ、という感じ。ランチは、そう、私の感覚では、まあまあ、それなりというところだろうか。バゲットはぱさぱさ過ぎるし、一かけしか出さないのは流石に考える。いずれ、こうした店構えであれこれ言っても仕様のないことだ。それに夜はまた、ぐっといい雰囲気かもしれないし。

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銀座遠征

○銀座遠征
 今日は恩師の個展に顔を出しに、銀座へ遠征。
 日曜の銀座など、いまどきまともな東京人の行くところではないと思うが、最終日なので仕方ない。
 日比谷で千代田線を降りると、改札といい出口といい、ポリスマンばかり目につく。パパブッシュ来日のためかと思ったら、天皇陛下ご即位20周年記念式典とオバマ大統領来日のための特別警戒らしい。70年安保のころはさておき、銀座でこんな治安警備などあまり記憶がない。
 もうこれで少し気が重くなったので、まず気つけに、スターバックスでエスプレッソを一杯。店内には早やクリスマス・ソングが流れている。お歳暮もまだなのに、とてもそんな気分ではない。だいいち、今日は暑い。
 先生に挨拶をしてギャラリーを出た後、でもやっぱりZARAとかH&Mを覘いてしまう。案外に年配の男性が服を選んでいる。私も試着してみたら、どれも結構似合ってしまう。どちらも黒白茶基調の渋めなので、若いとかえって「らしく」なりすぎるかも。とは言っても、上から下までZARAとかいう人を見たことはない。
 さて日も落ちて、三越のクリスマスツリーのイルミネーションが美しく、ダロワイヨでテリーヌとマカロンを買って帰宅する。

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「アド街」と「昭和の面影」

●「アド街」と「昭和の面影」
 今夜の「アド街」は、京急新子安駅周辺。
 「昭和の面影」と言っていた。
 このことばに、いつも引っかかる。
 「昭和」といっても、なかなか長うござんす。
 まず大きく分けても、「戦前」、「戦中」、「戦後」。まるきり違う。
 そしてわれらが戦後も、昭和20年代、30年代、40年代、50年代、60年代と、それぞれぜんぶ違っている。しかも東京と地方では、これもぜんぜん違うのだ。もっと言えば、東京の山の手と下町とでは、同じ時期でも天と地の相違だ。
 そのあたりが、テレビも映画も、平成のメディア製作者たちは考証がデタラメ、と言って悪ければ、まぜこぜだ。たぶん気鋭の30代は、もう昭和の末期の生まれなので、それ以前の時代のことは混然となって、またそれにエキゾチシズムを感じているのだろう。

 もっとも人のことは言えないので、昭和の、特に戦後の人間にとって、明治や大正のことを考えるとき、やっぱりそれと同様のことがあるわけだ。
 これが江戸になると……と遡っていって、ついには日本史年表の見開き2ページ分、てなことでまとめられてしまうのだ。

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ひどい事件ばかり

○ひどい事件ばかり
 先月の終わりから今月初めにかけて、何かに憑依されているとしか思えないような、ひどい事件ばかり。アメリカも、また日本も。世界の社会ニュースは報道されないが、もし列挙したら、恐ろしいようなことになっているかもしれない。
 この二週間位は、人間のエネルギーというか波動のようなものが、乱れきっていたような気もする。私もそれを、どうやらまともに喰らっていた。授業でもまったく乗らないし、月曜日は凡ミスをしでかした。
 こういうときは、ぱあっと車を飛ばして、深夜のジーンズショップを冷やかし、スターバックスあたりでコーヒーを一杯飲んで帰ってくる、なんていうのが、けっこう効果的かも。

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