阿倍野何とやら 阿倍野何とやらで経済が上向いたり、明るくなったりというのは、じつに軽薄浅薄で、胸糞が悪くなる。庶民が金を遣いたいという風に思うようにならなければ、ぜったいにダメだ。マーケティングで無理やりブームを作るのではなく、贅沢心や強欲心をあおるのではなく、真に欲しているものを供給しながら、次第に上昇へと導くのだ。全部DISNEYとかIKEAとかGAPとかH&Mとかにしてやられているではないか。UNIQLOは嫌いだが、それでもまるで欧米流にむしろやっているからこそ、ロンドンの目抜きで殿様商売ができているのだ。 もしまたバブルよもう一度、また贅沢がしたいというのであれば、日本及び日本人はもう仕舞いだ。 そんなことで、日本及び日本人の孤独は癒せない。 [0回]PR
なぜ懲りないのか 何から何までものごとを元に戻せばいいというものではない。バブルがいかに虚しいものだったか、日本人は思い知ったはずなのに。天災でいかに簡単に失われるか、人災でいかに傷つくか思い知ったはずなのに。また金を遣いたいのか。金を遣う味をまた味わいたいのか。クリスマスに湾岸へ行きたいのか。 [0回]
神のざんねん 次から次へと、新しい道を開いていく人もいる。 まったく穏やかに、そのままの幸せを送っていく人もいる。 私のように、つねに苦しいと思い続ける人間もいる。 私の思い方:人間は、本来幸せにいる/あるのが当然(当たり前)で、神もそう人間を作ったはずなのに、どうしてかその神が、まったく不条理にも人間に襲い掛かり、無理難題を吹っ掛け、苦しみ悩ませる。それはなぜだ? ←神が悪い。 ヘブライの考え方:人間が思い上がって罪を犯した酬いの罰を受けている。 だから、本来幸せでいるのが当然であっても、生きているのが当たり前であっても、それに対する自覚と感謝を忘れると、天理教のいわゆる「神のざんねん」になる。そして人間の心には、不平、不満、不幸が生まれる。「今の私が、私だけが本来的に、全面的に正しく、圧倒的に神が悪い。理不尽で残虐な嫌がらせだ。だから私は何一つ学ぶつもりも、改めるつもりもない」 今の私の自我が、まったくこれだ。 [0回]
NHK新春お好み文芸 ほんのちらりだが、ラジオで聴いた。というより、懐かしい声が聴けた。 「まだやっているのだ」という、この心持ちが、いまでは貴い。 何かが変わらずある、ということが、ときに人間に寄り添ってくれる。 [0回]
ウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサート 今年もウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサートを視聴できたことに感謝する。 大震災以後、ほんとうにすべてのことが変わってしまった。私の身辺も激変し、国内外の政治も変わった。そして、もう元には戻らない。戻そうという努力はあれ、もはや質においても量においても、復元などできはしない。(なぜみんな、あのことを忘れきったように、あたかもなかったかのように日常を振舞えるのだ? まずはそれぞれ自分のことに必死だからなのか? 感情が冷え切ったか、それとも鈍磨ないし麻痺しているのか? あるいは冷酷なのか?) その中で、暗夜行路をともかくもとぼとぼと歩んでいくとき、このコンサートを聴けたということは、冷え切った心を、たとえ一部であろうと、表面であろうと、温かくする。 [0回]
除夜の鐘 大晦日になると、いつもこの詩を思い出す。 皆さんに送ります。 除夜の鐘 中原中也 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。 千万年も、古びた夜(よる)の空気を顫(ふる)はし、 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。 それは寺院の森の霧つた空…… ...そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて来る。 それは寺院の森の霧つた空…… その時子供は父母の膝下(ひざもと)で蕎麦(そば)を食うべ、 その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出、 その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。 その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。 その時囚人は、どんな心持だらう、どんな心持だらう、 その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。 千万年も、古びた夜(よる)の空気を顫(ふる)はし、 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。 [0回]
トリックスター この三年間というのは、いったい何だったのだ。 あの惨敗した党は、所詮トリックスターだったのか。 あの、めちゃくちゃに引っ掻き回して、その結果回復・再生へのエネルギーを回復させる、という奴だ。 [0回]
launch覚え書き ばらしたり、組みなおしたりなどと見せかけていたのはダミーだろう。常套手段だ。 この時期のlaunchというのは、愛国主義を呼号する某党およびその指導者に対してはむしろ追い風、さらなる助け舟ではないのか。国際的背景を注視していかねばならないだろう。 [0回]
マイナス100点 感情が鈍磨している。いや感じないように無意識がそうさせている。そうでもしないと、日々を過ごしていけない。 腹は減るのだが、食欲がわくというのではない。食べても味はわかるが、旨いとは感じない。つまり感受性の鈍磨だ。 畢竟、喜びがないということだ。 いっときの喜びの後には、どうせ悲しみが来る。なまじ喜んだ分、悲しみの量は倍になる。単純な数直線上の計算だ。そう思うから、喜びなぞ感じない。ない方がいい。しかして来たる悲しみは常に喜びより大きいから、喜びは打ち消されてしまう。 これをシミュレートしてみよう。 「なにかまあ、少しはよくやった(かもしれない)。プラス1点。ああ失敗した、うまく行かなかった。マイナス100点。リカバーせねばならぬポイント、差し引きマイナス99点。なにかまあ、よくやった。プラス1点。残りマイナス98点。失敗した、うまく行かなかった。マイナス100点。リカバーしなければならないポイント、差し引きマイナス198点。」 私の人生は、このようなものだ。私は人生を、このようなものと感じている、考えている。 こうして、私にはもう、喜びがない。だったら喜びなぞ、なくていい。感情なぞなくていい。ロボットになりたい。 [0回]