ボルボ240、小諸の旅 ○ボルボ240、小諸の旅 大学祭休講を利用して、5月11日、12日と、妻を連れ小諸に行ってきた。島崎藤村フィールドワークの旅。天気に恵まれ、快適だった。 11日午後出発。中央道を取り、諏訪SAで軽食と給油。長野道~上信越道と走って、小諸で降りる。東京から4時間。 藤村の恩師木村熊二が開いた鉱泉旅館、中棚荘に泊まる。もちろん現在では、すばらしく洗練された宿となっている。連休の次の週のこととて、宿泊客も少なく、静かで落ち着く。食事も地ビールもなかなか美味。風呂は別棟になっていて、お湯はとても滑らかでいいのだが、この季節の小諸はいまだ早春で、部屋から浴場までいくのはなかなか寒い。真冬ならどうなることだろうと思う。 ロビー〈ここにも薪ストーブが赤々と燃えている〉には藤村関係の書籍も多数揃えてあって、重要なもの以外は部屋で閲覧することもでき、風呂に浸かって疲れを取った後は、ゆっくり読書した。それで面白かったのは、藤村は小諸での生活を、後にはあまり良い思い出としていないということだった。懐古園に歌碑が立てられたときの除幕式にも出席していないし、便乗して「藤村だんご」という土産ができたのを知るとかんかんに怒って「そういう所だ」と吐き捨てている。このあたり、賢治と花巻の関係にちょっと類似して面白い。 12日翌朝、早起きして入浴と散歩。宿の直上に、木村熊二の寓居水明楼がある。昔はここから千曲川の岸と流れが見えたのだが、今では木も生い茂り、しかも旅館の真下には団地が作られていてほとんど見えなくなっている。何でこんなところに団地を作らねばならなかったのだろう。 素晴らしくよく摺られたとろろをかける麦飯など、よく吟味されて美味しい朝食を取り、宿を出て、懐古園見学。土曜日だというのに、来ているのは台湾人観光客とスケッチに訪れている子供たちばかり。今年は大河ドラマを当て込んで、山本勘助ばかり。 私たちは藤村詩碑と牧水の歌碑を見る。牧水の方は石垣に字を彫り込んであるだけで、「その慎ましやかさに比べ藤村の方は」と批判的に書いてある文章を昔読んだことがあるが、それはそれぞれだ。ただし小諸は藤村で食ってはいるな、と思うことは確かだ。まちそのものはすっかり寂れているのだから。藤村資料館には小諸時代の藤村使用品がさまざま寄贈されていて、それを見るのは楽しかった。最初の妻ふゆの父がわざわざ小諸まで提げて来て藤村の家の居間に掛かり、のちに訪ねてきた柳田国男から「あの時計はずいぶん遅れているよ」と言われる、その時計と思しき柱時計もあった。しかしどう考えても、いちばん哀れなのは、このふゆ夫人だと思う。 懐古園を出て、小諸駅のすぐ横に移築保存されている、小諸義塾記念館を見学。ここの様子は、そこに集った教員の姿とともに、藤村の『千曲川のスケッチ』に詳しく描写されている。当時の写真も多数展示してあり、面白かった。創設者の木村熊二という人は、昌平黌で学んだエリートで、天狗党平定にも、第二次征長の役にも従軍し、勝海舟の部下として近藤勇とも面識があり、彰義隊に参加した後偽名でアメリカに逃れ、そこで留学して学位も取りプロテスタント牧師になり、帰国後は明治女学校を設立するという、波乱万丈の英雄的幕末明治人だ。新選組、透谷、中村屋、藤村、私が興味を持ったものがみんな木村熊二で結びつくのは不思議な感じがする。 さて小諸をこのあたりで辞して、われわれはふたたびボルボ240に乗り込む。小諸ICに入ろうとすると、「事故閉鎖中」の表示。この日の午前9時ごろ、十数台の関係する大事故が起きていた。懐古園を見学せずにそのまま出発していたら、危うく巻き込まれるところだった。そこで次の東部湯の丸ICから入り、上信越道をそのまま北上する。妻がいまだ裏日本の日本海を見たことがないので、越後まで出るつもり。 信濃ICでいったん降り、一般道を通って上越まで出ることにする。以前立ち寄って覚えていた、上越IC新都心のジャスコ内にある小嶋屋で、へぎそばを食べる。 それから日本海を眺めながらドライブ、柏崎~七日町~小千谷と山を横切り、17号線に出て、スキー場を眺めながら三国峠を越え、渋川~前橋~高崎とひた走る。交通量も少なく、非常に快適。給油すると、リッター11キロ強まで行っている。加速も効くし、トルクフル。 高崎近くで夕食を取り、それからまた17号線を南下。熊谷から道を東松山に取り、鶴ヶ島から圏央道に入って、あきる野で降り、八王子から中央道で高井戸、そして自宅へと帰り着いたのだった。 [0回] PR